2016年4月1日 第207話             

因果の道理


    おほよそ因果の道理、歴然として私なし。
    造悪のものは、堕し、修善のものはのぼる、
    毫釐もたがはざるなり。  正法眼蔵深信因果
      

不昧因果

 中国は唐の時代のお話です。百丈懐海和尚の説法の席に一人の老人がいて、いつも修行僧とともに聴聞していた。説法が終わって、修行僧が退席すると老人も退席していった。ところがある日のこと、老人は退席せずにとどまっていた。そこで百丈懐海和尚はその老人に、「おまえさんは誰だ」と問うた。すると、老人は、「かつてこの山に住んでいたとき一人の修行僧が私にたずねました。『大修行をなしとげた人でも、やはり因果に落ちるのでしょうか』と、私は『不落因果(因果に落ちない)』と、そのように答えたために、私はその後五百生のあいだ野狐の身に堕ちてしまったのです」と、そう言った。

 野狐が老人に化けていたのです。老人は「野狐の身を脱したいので、一転語をいただきたい」と言った。一転語とは、たった一言で迷いを転じて悟りに入らしめる言葉です。そこで百丈懐海和尚は「不昧因果(大修行をなしとげた人は因果をくらまさない)」と答えた。それを聞いた老人は言下に大悟して「おかげで私は野狐の身を脱することができた」と言って礼拝した、というお話です。

 不落因果とは因果に落ちないことで、因果の否定です。不昧とは、道理にくらくない、明らかであることから、不昧因果とは因果の肯定です。なぜ不落因果と答えて野狐の身に堕ち、不昧因果と聞いて野狐の身を脱することができたのでしょうか。

 因果の道理を違えていたから、長い間、野狐は迷いの身から脱することができなかったが、不昧因果の一喝を聞いて、野狐は迷いの身を脱することができたという。老人に化けた野狐の寓話で百丈懐海和尚が因果の道理を説いたというお話です。

因は果を知らず

 ものごとを生じさせる直接の原因を因といい、間接的な原因で因に加わる事情や条件を縁といい、それによって生じることを果という。そして、因が果に及ぼす力を業という。業とはサンスクリット語のカルマンの訳語で、行為を意味します。一つの行為はかならず善悪・苦楽の果報をもたらす。すなはち善因善果、悪因悪果です。

 これを喩えであらわすと、こういうことです。一粒の種がある、これを因とすると、畑を耕して種をまき、水や肥料を施す行為、すなはち業の力を縁として、芽が出て花が咲き、実を結ぶ、これが果です。それで食用になる草の実や果樹の実を総称して果物というのでしょう。縁の働き具合で果も大きく違ってくる。悪い因でも良縁が加われば良い果が得られ、良い因でも悪縁が加われば悪果となる。

 植物の種の話ばかりでなく、人もその存在のすべてがこの法則に準じます。善きにつけ悪しきにつけ一つ一つの行為(業)の積み重ねが今の私を造っています。しかもその果がそのまま果で終わるのでなく、また因となって、そこに縁が加わり、さらなる果を造っていきます。これを因果律といいます。この因果の道理はお釈迦様の教えの根幹をなすものです。

 大修行底の人であってもこの因果律を免れることはできません。すなはち 因果は否定できないのに、不落因果だと妄想したがゆえに野狐の身に堕ちたというのです。野狐の話は因果の道理を説くための百丈懐海和尚の作り話ですが、そもそも人が野狐の身に堕ちることなどありませんから、野狐は野狐であって、人は人です。百丈懐海和尚は、このように野狐の話をもって因果の道理を説かれました。
 因果の道理を信じてそれに執着せず、人のため、自分のためにするのでなく、本当のことをすれば、自分のため人のためになる。因は果を知らず、ということでしょう。

三時業

 仁愛のものは短命で、粗暴のものは憎まれもの世にはばかるで長生きする。道に背くもの、邪に上手に振る舞えるものが得をして幸福を得、正しいものが損をして不幸をみる。などと因果応報はないのだという人もあるようですが、けっして因果の道理は否定されるものではありません。

 業報とは善悪の業因によって受ける苦楽の果報のことです。善悪の行為(業)はかならずそれを行った人自身に報われるが、その報いを受ける時期によって三つに分かれるといわれています。すなはち三時業とは、行為を行った直後に報いをうけるものを順現報受、その人の生涯のあいだに報いをうけるものを順次生受、次の世、来世で報いをうけるものを順後時受という。このことわりを知らなければ悪道におちて、長い間の苦しみを受けることになる。

 野球の清原和博選手が麻薬におぼれた。強い自分を意識しすぎると、強くない自分に負けてしまう。それで入れ墨をしたり虚勢をはって見栄っ張りをするけれど、強くない自分に負けて麻薬に手をだした。強い自分であっても、弱い自分であっても、いずれでもよいではないか、弱い自分であってもそれを受け入れたら、自分らしい自分であることがわかる。それができないから、清原選手は麻薬に堕ちてしまった。
 野球選手の間では賭け事が日常的だという、相撲界でも過去に賭け事が流行っていた。いずれも自分で自分の足をかじっているようなもので、そのうち歩けなくなってしまう。

 だが人は道を違えて悪業をなしたとしても、悪かったという懺悔の心をおこせば過去の悪業の報いは軽くなり、あるいはまったく滅して心が清らかになる。そして精進努力しようという気持ちが高くなれば、自分のみならず多の人々にも善の影響をあたえるようになります。
 もろもろの善いことを、限りなく努力し実行することを精進といいます。善業はこれを喜べば、いよいよ人は向上し成長するでしょう。

因果の道理、歴然として私なし

 因果の道理を否定するものは、途方もない邪見をおこしてついには善の根っこを断ち切ることになる。因果の道理はきわめて明白であり、そこには私心はない。悪を造るものは堕落し、善を修めるものは向上する。寸分もたがうことなく、因果の道理は厳然として存在しています。

 「今の世の、因果を知らず、業の報いを明らかにせず、三世を知らず、善悪をわきまえないようなものどもの仲間入りをしてはならない」と道元禅師は教えられた。因果律はあくまでも自分の生き方にかかわることですから、三時の業報も自分自身の問題です。生きているのは今であって先ではないから、今、善業を積む生き方を心がけたいものです。

 今生のわが身は二つ三つあるわけではない、ただ一つ、一度きりの人生です。それなのに、いたずらに邪見に堕ちて、むなしく悪業に報いられるということは惜しむべきことです。自ら悪をつくりながら、それを悪でないと思ったり、あるいは悪の報いなどあろうはずがない、などと間違った考えを起こすことも、悪の報いを受けることになるでしょう。すなはち、正直に生きるべしということでしょう。

 不落因果とは因果を否定することで、そのために悪道に堕ちる。これに対して、不昧因果とは因果を深く信じることであり、悪道さえも脱することができる。不落だ不昧だということにもにもとらわれることなく、因果の道理を信じることです。生きているというのは今の一瞬だから、善業を修する生き方を切れ目なく続けることが仏道でしょう。
 

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