2016年5月1日 第208話
             
仏向上の事

    この法は、人人の分上にゆたかにそなはれりといへども、
   いまだ修せざるにはあらわれず、証せざるにはうることなし。
   はなてばてにみてり、一多のきはならんや。
   かたればくちにみつ、縦横きはまりなし。 正法眼蔵・弁道話
      

天地のめぐみによって人間は生かされている

 古代の人々は天地のめぐみによって人間は生かされていると考えていました。それで天地の神々に畏敬の念をもって、人間の営みのすべてをおまかせしました。ところが人間は知能の発達により、傲慢なふるまいをするようになり、天地のよろずの神々でなく、唯一絶対の神を崇める人々が現れて、一神教が生まれました。一神教とは、唯一の神的存在者だけを認めてこれを信仰する宗教です。そして、その神のもとで人間社会のあり方が定められるようになりました。

 仏法の法の意味は真実真理ですから、人間の思慮分別ではおよばざるところのものです。ところが人間の解釈で、ああだこうだと論じるからおかしくなる。人間の思慮分別で形成されていくと、それはもう真実真理の法でなくなってしまう。まして人間が考えるところの神を造りあげて、神と人間社会、神と自分とのやりとりをもって、正義だ悪だと評価をくだすようになると、一つの神をめぐって正当性を主張しそれを固持するから、立場のちがいによる争いが起こります。

 いつの時代でも、人類は戦争やテロの恐怖にさらされています。人間社会ではさまざまな権利の主張のぶつかり合いにより、摩擦が頻繁に生じます。唯一絶対の神のもとでの自由と平等と博愛の精神は、ともすれば無力化してしまい、貧富の格差、人権侵害等により、強者と弱者の憎悪があからさまになり、戦争やテロを引き起こし、世界のいずれの地でも恐怖と不安が広がっています。

 人間が創造する神のもとでつくられた人間社会の仕組みは、国際化する時代においては、その仕組みが危うくなってきたようです。また人間の考える唯一絶対の神のもとで人と社会のあり方を規定しようとする宗教では、人々の幸せを求める多様な思いを受け入れるのには限界があるようです。天地のめぐみによって人間は生かされていると考えて、畏敬の念をもって、よろずの神々を崇めていた人類の祖先の謙虚さこそ尊ぶべきでしょう。

真実真理とは宇宙そのものです

 人間の判断や、考えでいかなることを思いめぐらしてみても、しょせんそれは人間の思考や認識の領域におけることであって、真実真理とかけ離れていることが多い。真実真理とは人間の思考や認識のおよばざるところのものであり、端的にあらわせば、それは宇宙そのものです。人はこの宇宙に生を受け、生かされ、また宇宙に帰って行く、これが人の一生です。

 地球が宇宙の塵の一粒だとすれば、人間はそこに生えたカビの一つのようなものです。人が生まれるのも、生きているのも、死んでいくのも、宇宙の塵である地球に付いたカビの生滅にすぎない。だから、かまえてみても、こだわってみても、悩んでみても、苦しんでみても、カビはしょせんカビにすぎないので、宇宙のカビだと認識すれば気楽に生きられる。

 熊本を中心として九州で大きな地震がありました、日本は地震の多発地帯ですから、いつどこで地震が起こるかもしれません。地震のみならず風雨の災害もあり、とりわけ近年は局地豪雨があるから油断できません。災害は人間の思考や認識の及ぶところでない自然のことですが、日頃の備えと心準備は欠かせません。そして災難があればお互いに手を携えて助け合い励まし合って生きていかねばなりません。

 大自然のもとでは人間の存在はちっぽけなものです。宇宙というこの世に今、生かされている私たちは、宇宙の塵である地球に付いたカビの生滅にすぎないことを常に認識して、おごりたかぶらないことです。カビになりきっておればよいのに際限なき欲望のために争い、苦しめあうことは避けたいものです。経済活動や社会のあり方が善き循環となるように、お互いに利他の精神で貢献しあえるカビであればよいのでしょう。

分別心を離れると真実が見えてくる

 神応寺が「心の悩み・人生相談」を始めてもう17年になりますが、さまざまな悩み苦しみの声が日々届きます。人間は社会的生きものですから、とりわけ人間関係の悩みがとても多いようです。そして、男と女の間柄の悩みや、自分の心の奥深きところの叫びとして、生きていくことの苦しさをだれかに聞いてほしいというものです。

 人間は社会的生きものですから、人間関係をもって日々の生活をしています。そうすると自己と他との複雑な絡み合いがついてまわります。そのために人間関係の悩みが生じます。親子であろうが兄弟であろうが自分でないから自己と他の間柄では感情のもつれや損得をめぐって肉親であっても争いが生じます。まして全くのあかの他人ともなれば、人間関係のもつれはとても複雑になります。生きていくのには常に悩みや苦しみ、苦労がともないます。

 人は行き詰まると、ふと、さまざまな疑問を懐きます。そして気持ちが沈んでしまい、気力をなくして立ち上がれなくなってしまいます。生まれてきたこと、生きること、死ぬこと、それが何なのかがわかればよいのですが、わかっていることは、今、確かに生きているということだけです。 生まれてきたことは、両親の存在があったから、生まれてきたのであって、それくらいは理解できますが、何のために生きるのかと問えどもわからない、まして、死ぬことになると全く理解できません。わからないことは、わからないということで それでよい。過去を振り返ってみても過ぎしことです。未来を思っても、どうなるかわからない。だから、今、生きる、これだけでよいのです 。

 その日の天気によっても人の心は変わるという。晴れておれば気持ちも晴れ晴れ、雨風が強いと気持ちが沈んでしまう、そういうことかもしれませんが、晴れておればかえって気持ちがおだやかになれず、雨や曇りが落ち着くという人もあるようです。晴れも曇りも、雨も嵐もいずれも天気です。「雨あられ雪や氷というけれど、とければ同じ谷川の水」です。自分の気持ちが浮き沈みしているだけであって、いずれであろうが晴れも雨も天気です。雨だ晴れだと、好きだ嫌いだと、そういう分別心が心を乱すもとです。雨も晴れも天気なり、好きも嫌いも心一つの分け隔て、腹も背も体一つの表裏なり。自分の気持ちが揺れているから、真実が見えないのです。

悟りに始めなく修行に終わりなしで、仏向上の事とは生きることです

 人間は虚栄心や損得心のためにうろたえている。虚栄心をもとうとするから、ことさらにかまえて、肩肘張らなければならなくなる。また、ものごとを利害損得で受けとめて行動しょうとするから、なにごとも損か得かの選択で判断してしまい、ことごとくが欲望の淵で一喜一憂してあがきもだえることになる。だが欲は苦しみの根源だが、生きる活力でもあるようです。

 本来の自己のあり方を知らないのが欲の入れ物である自己という凡夫です。凡夫も本来は仏だけれど、凡夫が自己を見失っているかぎり凡夫であって、自己を知りさえすれば凡夫でない。だから、凡夫であることを自分が認識して、坐禅すなはち仏のまねをするとだれもが仏となる。坐禅しているとしだいに人格は形成され、新しい人生観もうまれていく。坐禅することで仏法が身についてくるからです。飯を食ったり掃除したり、これも修行となれば仏法が身についてくるから、凡夫が仏となる。

 自分は一人で生きているのでなく、大自然に生かされて生きている。大自然に生かされている自分を実修実証することが坐禅です。人が坐禅すれば、広大無辺を実修していることから、自分が自分でなくなって、大自然になる。一人が坐禅していることは、宇宙いっぱいの自分になることだから、宇宙いっぱいが坐禅していることと同じで、坐禅することで宇宙いっぱいの本来の自分であることが実証される。それで道元禅師は人は真実人体であるといわれた。無限の宇宙の中でわれわれが生活しており、やれ過去だ未来だ現実だといっている。

 自己に具わっている本来の面目のことを仏性といいます。だれもが仏性を具足しているのであるが、なるほどと承知できないで、自分のほかにもっといいものがあると妄想ばかりしています。その自己というこだわりをはずさないと真実人体になりきれません。
 無量無辺の宇宙とぶっ続きの坐禅を修行すると、初めて本来の面目が実現する。本来の面目は修行していれば露わになる、それは修行がそのまま悟(証)りだからです。仏向上の事とは、悟りに始めなく修行に終わりなしで、さらに向上につとめよということです。本来の面目は生きている限り生き続けるから、天地いっぱいの身を、今、宇宙いっぱいに使うことが、生きるという意味でしょう。

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