2016年9月1日 第212話
             
利他(りた)

     一つには布施、 二つには愛語、 三つには利行、
     四つには同事   「正法眼蔵菩提薩埵四摂法」
       

自然界は利他でつながっている

 母親は、お腹を痛めて生んだ子に、この子を育てたら将来は自分がこの子に助けてもらえるからと、そういう目的をもとに子供を育てる母親はいないでしょう。たとえ自分がひもじくとも、子には食べ物をしっかりと与える、自分が湿ったところで寝ても、子には乾いたところに寝かせる。自分を犠牲にしても子を護り育てるのが母親でしょう。

 親は子に、何の見返りも求めないものです。たとえ危険を冒しても子の安全を保とうとします。親が自分の身の危険を顧みずに子を護るのは、人間にかぎらず、すべての動物の本能のようなものです。だが自分本位で子の幸せや安全は二の次であると、自己中心の行動をとる親もあるようで、そのために子が悲しい結果に遭うということがあります。 親は自分を犠牲にしても子を育て、子にその見返りを求めない。子育ては忘己利他そのもので、愛情いっぱいに育った子には大人になっても忘れないこととして、他を大切にする心が育まれています。

 蝶や蜂がいなければ、虫媒花は実を結ぶことがない。しかもどんな花でもどの昆虫でもよいというのでもない。子孫を残すためにモンシロチョウは白菜やキャベツに、アゲハチョウは柑橘類と相性が合う。互いがその存在を不可欠としている。自然界は利他でつながっているから、弱肉強食という言葉は自然界にはなじみません、土の中の微生物から人間まで、あらゆる生きものはどこかでつながってこの世に生存している。なんの見返りも求め合うこともなく、生きものはこの世に生きています。

 植物は炭酸同化作用により葉緑素をつくる、この光合成の過程で生じるのが酸素です。人の呼吸では、空気中の酸素を吸収して、炭酸ガスを吐き出しています。その炭酸ガスがまた光合成をすすめ酸素を生みます。人間も植物と共に生かされています。
 意識するしないにかかわらず、親が子を育てることは利他行そのものです。見返りを求めないという行動を利他行といいますが、この利他行を意識して実践するのも、また意識しないで自己本位に行動するのも人間です。自然界にはそうした意識はありませんが、人間は自分中心に考え、利他でなく自利でさまざまな関係をつくってしまい、生きづらさから悩むことも多いようです。

利他こそ商いの根本なり

 人は利害損得で行動することが多いようです。商いで、この品物を売ればなんぼの儲けになるのか、儲けがなければ売り買いは成り立たないようです。農家さんも、米でも野菜でもよい儲けになれば辛い仕事もこなせます。また何を栽培すればよい儲けになるのか、作物を育て収穫する喜びもさることながら、やはり損得勘定が先に立つようです。

 日本のモノづくりをささえる技術者は、高い技術を求めて絶え間なく自己研鑽して技術向上を目指しています。製造された品物が市場で売れてはじめて企業に利益をもたらすのですから、売れる商品を創りだし、利益が稼げる製品を世に出さなければなりません。高度な技術力が込められた製品であっても、売れなければ利益を生むことがないからです。

 拝金主義の中国の人々に、最近、京セラの創立者である稲盛和夫さんの本が多く読まれているそうです。稲盛和夫さんが説く利他の経営理念に新鮮な感動をいだく人が増えてきたそうです。モノをつくるのに顧客の満足を根本におかなければ、それは商品になり得ない。消費者の生活にお役に立てること、ご満足いただけるところに儲けがついてくる。利益は得るものでなく、いただかせていただくものである。拝金主義の中国の人々が、このところに気づきはじめたのでしょう。

 便利で生活に役立つ商品であれば顧客から好評を得る。そして満足していただいてはじめてその商品の価値が生きてきます。商品が消費者の生活に入り込んだときはじめてその評価が下されるのです。製造業者は使い手の側に立って製品を作らなければ喜んでもらえない。作物の作り手である農家も消費者の満足を得るから買っていただけるのでしょう。顧客満足度が高くなければ商取引は成り立ちません。顧客を幸せにさせていただくという、利他の精神が込められていなければならないのでしょう。

利他の生き方こそ生きる意味そのものです

 「自分の幸せを望むならば、他を幸せにすること、他を幸せにすれば自分も幸せになれる」これは幸せの大原則です。この世に存在するものはことごとくが他からその存在を必要とされており、互いに必要とすることでつながっています。したがって不必要であるのに存在しているというものはありません。この世に生を受けたものは必要とされる存在であるからです。

 この世は利他が根本にあり、あらゆるものは利他によりつながっており、そのことでそれぞれが存在している世界です。したがって、この世の、この利他の道理に逆らっては生きていけません。利他に沿った生き方をしなければ、それは辛く苦しい生き方をすることになるでしょう。

 この夏、オレオレ詐欺にあった老婆の話を聞きました、騙されたことでの腹立しさと、さらに危害を加えられないかという恐怖で体の震いが止まりません、夜もよく寝られないのですと話された。騙した犯人グループはお金を手に入れても、そのお金を使うことに不安心がよぎるでしょう。捕まらないかと、いつも心配で安眠できないでしょう。この世は利他によりつながっているから、あげる方が気持ちよくて楽しいのであって、奪ったお金では幸せになれないのです。

 利他の生き方を無視して他を殺めたり、盗みや不正を働くと、それはとても苦しい思いをしなければならず、悩み苦しんで、その代償を払わされることになります。親の子殺し、子の親殺し、いじめや差別、詐欺、テロも、戦争も、すべてが自己本位のわがまま勝手な人間の行動であり、ことごとくが利他に背いた行いであるから、苦しみや悩みに束縛されて、自滅の道をたどることになるでしょう。

利他心と向上心

 自分が楽しければそれでよいではないかと、自分中心の生き方をしていると、必ず生きづらくなってくる。自分以外は家族でも他すなはち他人ですから、自己本位に振る舞えば、人間関係がぎくしゃくしてきます。それで、生きづらさをなくそうとするならば、自分本位をおさえて、自利でなく、利他の行いをすることで、生きていることが楽しくなるでしょう。

 「他を幸せにしない限り自分に幸せは来ない」、これが利他の精神です。だから、何ごとにつけてもこだわりをもたずに、他に必要とされることを通して、他に貢献する、これが利他の行いでしょう。世の中は自分をどんなことで必要としているのか、自分にとってそれは何か、何ができるのか、他に必要とされている自分を見つけて、他の幸せのためにはたらかせていただく、そこに生きる意義を見つけられたら、その人は幸せになれる。利他の生き方こそが幸せに通じるのだという、この道理をしっかりと把握しておけば、迷うことなく、自ずと地に足が着いてきます。

 「衆生を利益するというは四枚の般若あり、一つには布施、二つには愛語、三つには利行、四つには同事、これすなはち薩埵の行願なり」と修証義にあります。「その布施というはむさぼらざるなり」、「愛語というは、衆生をみるにまず慈愛の心をおこし、顧愛の言語をほどこすなり」、「利行というは、貴賤の衆生におきて、利益の善巧をめぐらすなり」、「同事というは不違なり、自にも不違なり、他にも不違なり」。利他のおこないについて、道元禅師はこのように説かれました。自とか他という分別があったり、利他にもこだわりがあれば、それは菩提心の発露である利他行にならない。

 だれもがこの世に必要だから生まれてきた、生まれてきたことが幸せの始まりです。どんな人であっても、他に必要だから存在しているのであって、自分中心の楽しさを求めることばかりを考えていたら、その人は必要とされない人になってしまい、生きづらい日々を過ごすことになる。
 利他の生き方には、向上心がなければなりませんから、自己の人格向上、知識、能力、技術をたえず高めていく努力がともないます。利他心と、向上心を持つこと、この二つが生き方の基本でしょう。辛く苦しくてもこの生き方の基本がぶれないようにしたいものです。 自分が生きる楽しみを知ることができれば、その生き方が他の人の気持ちに影響して他も自分の生き方を変えようと思うようになるでしょう。

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