2016年10月1日 第213話
             
愚の如く魯の如し

         潜行密用は愚の如く魯の如し、
        只能く相続するを主中の主と名づく   宝鏡三昧
       

瓦を磨いて鏡となす


 南嶽懐譲禅師のもとで修行していた馬祖道一禅師に、南嶽が「坐禅をして何をするか」と問うた。馬祖は「成仏しょうと思う」と答えた。すると、南嶽は瓦を一枚持ってきて磨きだした。そこで馬祖は「瓦を磨いて何されるのか」と問いました。南嶽は「瓦を磨いて鏡となす」と答えたので、馬祖は「瓦を磨いても鏡にならず」と問い返すと、南嶽はすかさず「坐禅して仏となるのか」と言い放った。

  「瓦を磨いて鏡となす」も、「坐禅して仏となる」というのも、ともに所得せんとする心のあらわれです。馬祖には坐禅して悟りを得ようとする心があった、けれども南嶽はその心をへし折ってしまわれた。「瓦を磨く」とは修行であり、「鏡となす」とは悟るということです。そもそも坐禅修行をしておることが悟りそのものであるから、瓦を磨き続ける、すなはち坐禅修行を続けるところに、鏡すなはち仏(悟)が現成している。

 凡夫が坐禅をしていると、どうしても所得の意識がついてまわる。それは坐禅をすれば何かよいことでもありそうに思えるからです。だが悟りを得ようと思って坐禅をしても、いっこうに悟を獲得できません。それもそのはず、修行とは悟りへの手段でなく、修行そのものが悟りであるからです。
 迷いの根本は所得の心があるからで、人間は何かを得ようと思ってのぼせてしまい、坐禅を悟りの手段であると妄想してしまうようです。

 坐禅を行ずることは修行であり、そのままが悟りです。すなはち坐禅は悟るための修行でなく、悟りの修行そのものです。真実真理に突き動かされることを悟るというが、坐禅を行ずるところにおいて、悟りがあらわれている、それを自覚することが肝心です。坐禅を修行していることがそのまま仏(悟)であるから「悟りに始めなく、修行に終わり無し」です。

修証一等

 道元禅師が中国、当時は宋の国へ仏道修行のために渡海された背景には、比叡山でのご修行で生じた疑問の解決があったと伝えられています。それは、「衆生は本来仏(もともとさとりの本性をそなえている)であるならば、どうして仏性をそなえているにもかかわらず、発心して修行せよと説くのか」。この疑問に答えるものが比叡山にはいなかったのです。それで比叡山を下りて建仁寺の栄西禅師のところへ行かれたが、すでに禅師は亡くなっておられた。それで栄西禅師のお弟子であられた明全禅師のもとで修行されたのです。

 明全さまが求道のために宋に渡られるということでしたから、道元禅師もかねてより宋への求道を願っておられたので、明全さまにつき随って渡海された。宋に渡られた道元禅師は、天童如淨禅師の下で身心脱落、脱落身心の大悟をなされた。身心脱落は修行であり、脱落身心は証(悟)なり。修行と証(悟)は一つのものであり、修証一等であるということです。
 道元禅師は修行と証(悟)を一つのものとして、修証一等であると理解できたことで、かねてよりの疑問が解けたのでした。

 道元禅師の帰国後の最初の書、普勧坐禅儀に「身心自然に脱落し、本来の面目現前せん」とある。本来の面目とは自己に本来具わりし仏性を云う。身心脱落、すなはち只管に打坐するところ、脱落身心、すなはち本来の面目を識るということです。
 身心脱落は捨てはてること、放下着であり、脱落身心は本来の面目(さとりの本性)そのもの、無一物である。慧能禅師は「本来無一物」、そのままが悟りの現成であるといい、慧能禅師の弟子である永嘉大師は証道歌で「法身覚了無一物、本源自性天真仏」といわれた。

 修行と証(悟)を分けて考えることは誤りである。道元禅師の教えである修証一等とは、修行が証(悟)、修行のほかに証なし。修行により証が実現(現成)するとは、只管に打坐することで、そのままが証(悟)の現成であるということです。修行をするところそこに証(悟)がある、修行と証は一つのものである。これを道元禅師は修証一等と教えられた。

筆禅一味

 愚僧に50年も親しくしていただいた禅僧ですが、書家でもある和尚がこの夏に世壽83歳で亡くなられた。その和尚がご生前中に 所懐という題で、ご自分の心境を書き留められた漢詩が残されていた。
 所懐は「竹径如魯、七十六念、筆禅一味、識本来面」です、亡くなられる7年ほど前につくられたものです。

 竹径魯の如し、竹径は竹のこみち、竹それは筆を、径それは書の道をさすのかもしれません。愚の如しは、洞山良价禅師の宝鏡三昧に「潜行密用は愚の如く魯の如し、只能く相続するを主中の主と名づく」とありますが、潜行密用(ひそかにひたすらに)、魯鈍の如し、魯鈍とは愚かにしてにぶきことで、歩きなれた竹の小径、筆をとる書の道も、それは愚かにしてにぶきもので、愚の如く魯の如しである。日常を一歩一歩の人生道場と心得て、八十余年ひたすら歩んでこられた。

 約200年前に越後の国に良寛和尚がおられたが、良寛和尚は書は人なりで、書家の書と禅僧の書とは異なるといった。書家の書は文字の美を求めるが、禅僧の書は悟りの美を求めるといわれた。書家の求める美を仏教流に表せば、変わりゆくものの美(諸行無常)、こわれゆくものの美(諸法無我)であろうか。それにくらべて禅僧の書は悟りの美(涅槃寂静)であり、諸法実相を露わそうとする。そこに書家の書とは異なる禅僧の悟りの美があると良寛和尚はいわれた。

 道元禅師の教えは修証一等です。それは修行と証(悟)は一つのものであり、書道においても書は修行であり書は証であるから、書家であるその禅僧は筆禅一味といわれた。筆禅一味のところ、身心自然に脱落し、本来の面目現前せり。書家であるその禅僧の揮毫は、本来の面目を露わにしたものであった。

愚の如く魯の如し

 道元禅師の教えは修証は一等なりで、修行がそのまま証(悟)であり、修行のほかに証なしということです。それは行の仏法であり、綿密の宗風だから、料理するのも掃除も、洗面、入浴、用便、喫茶喫飯も坐禅そのもので、それは修行であり証(悟)である。何ごとにつけても邪念を払拭して、そのものになりきって、それを修行することがそのまま証(悟)であるということです。

 歩歩是道場といいますが、日常が一歩一歩の人生道場です。日常の何ごとにつけても、どういう仕事に従事していても、日々が修行である。日常の喫茶、喫飯のこころを平常心といいますが、それは日常のこころがそのままさとりのこころでもある。すなはち平常心是道と心得ておくことが大切なことでしょう。

 日常が仏道修行の道場だから、モノづくりの仕事、接客業、商業、職人、教師、公務員いかなる仕事であっても、その仕事が修行であり、その仕事を勤め続けることがそのまま証(悟)である。家庭においても、炊事洗濯、掃除、何ごとにつけても、日々の生活ぶりが修行であり証(悟)である。
 迷い苦悩しながらの現実であってもその日常の生活がそのまま人生修行です。証(悟)すなはち、悩み苦しみのないところとは、どういうところであるのかということを、いつも自己に問い続ける日常の修行がなされておれば、幸せがついてくるということでしょう。迷い苦悩していることが、そのまま真実真理と表裏をなしているからです。

 洞山良价禅師の宝鏡三昧に「潜行密用は愚の如く魯の如し、只能く相続するを主中の主と名づく」とあります。愚かで魯鈍の如くであっても、只ひたすらに、修行するところ、だれにでも真実真理(仏)は呼びかけてくる。いたずらに自己の心にこだわらず、自然体であれば、真実真理に突き動かされて、迷いや苦しみに振り回されることはない。日々を平常心是道と念じて、仏法を相続し不断に行ずるところ、主中の主すなはち、修行の主人公であり、証(悟)の主人公であり続けるということでしょう。

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