2017年1月1日 第216話
             
人生、いつでも今が出発点

   最勝の善身を徒らにして露命を無常の風に任すること勿れ
   無常たのみ難し、知らず露命いかなる道の草にか落ちん
                                    修証義
     露のようなはかない命であるからこそ、この命を尊びたい)
       

日本の歴史を400年ごとに区切っていくと、そこに時代の節目があり
宗教の変遷も重なっている

 昨年は、NHKテレビの大河ドラマ真田丸が好評でした。西暦1600年が関ヶ原の戦いで、東軍の徳川家康が勝利した。豊臣秀吉の築いた大阪城が落城したのが1615年で、それから約400年が経ち今年は2017年です。日本の歴史を400年ごとに区切ると時代の変遷がよくわかるといわれています。宗教についても同様のようです。

 日本列島には数千年前から人々が住んでいたという痕跡が残されています。2000年前頃になると大集落が各地にできて、1600年前頃には古代国家が形成され、大きな古墳がつくられました。西暦600年頃には聖徳太子のもとで憲法十七条が制定され、西暦700年頃になると奈良に律令制国家が成立しました。

 1200年前頃、西暦794年には桓武天皇による平安遷都、すなわち平安時代となり、800年前頃、1192年には源頼朝が鎌倉に幕府を開き、武士の世となっていった。400年前頃、西暦1600年の関ヶ原の戦で徳川幕府が、そして明治、大正、昭和となり、平成12年が西暦2000年でした。

 太古の時代から日本列島には先祖を崇拝し、八百万神を拝む人々が住んでいました。1600年前頃になると大陸文化の影響を受けて古代国家が形成されるようになりました。やがて仏教が伝わり、仏教国家の出現となり、聖武天皇の詔勅による東大寺大仏開眼という国家プロジェクトなど、国政に仏教が深い関わりを持つようになりました。

 1200年前頃、平安時代には伝教大師最澄により比叡山が開創、弘法大師空海により高野山が開かれた。800年前頃、鎌倉時代になると比叡山の多くの学僧の中から栄西、法然、親鸞、日蓮、道元、一遍という傑出した有能な僧がそれぞれ新しい宗風を起こし、今日の日本仏教の開祖となっていったのです。

 そして400年前頃にはキリスト教が伝わり、徳川幕府はこれを禁じて、既成教団である仏教各宗を寺請制度によって幕府の管理下に置き、これが檀家制度として定着するようになり、先祖祭祀と仏教が同根化していきました。明治政府は神道を重視して廃仏毀釈をおこなったが、400年を経た今日までこの檀家制度が続いています。

 江戸時代には儒学がさかんになり、また道徳や倫理が信仰の域にまで高められて、人々の生き方や社会のあり方に影響を与えました。徳川幕府のもとでは新たな宗教は生まれなかったけれど、明治以降には多くの新興宗教が生まれました。また新たにキリスト教などの一神教も流入してきました。

日本固有の宗教・・・キーワードは「和」

 日本の歴史を400年ごとに区切っていくと、そこに時代の節目があり、また宗教の変遷が重なっています。それというのは、それぞれの時代における社会状況から新たな宗教があらわれてきたということでしょう。

 言うまでもなく、日本固有の宗教は先祖崇拝と八百万神を拝む神道(かんながらの道)です。これが古代からの日本人の一貫した信仰で、キーワードは「和」です。時代によりさまざまな宗教があらわれるが、いずれもこの信仰と同化することで今日に至っています。

 この日本固有の宗教に仏教が合わさって、葬祭や年中行事が行われてきました。そうした日本人の信仰は村社会である地域共同体が基盤であり、氏神と菩提寺がその中心にあり、 村祭り、村行事、催事や共同作業、冠婚葬祭などの年中行事がおこなわれてきました。地域共同体は一族や母屋分家を単位とした村社会であり、相互扶助で成り立っています。

 ところが、近年日本人の信仰に変化が見られるようです。何が変えているのでしょうか。それは、都市化の進展により村社会である地域共同体の存在や機能が弱くなってきたこと、そして少子高齢化社会になって家族形態が変わり、家から個の時代になってきたためです。

 また、市場競争と株主優先の拝金経営のもとでは、雇用形態も終身雇用から契約雇用へと変わり、会社が一家族であるという人のつながりもなくなった。 年功序列賃金でなく、成果と実績で評価され、コストだとする使い捨て雇用が一般化したことで生活不安をまねき、それが結婚や子育てにも影響している。雇用の場も、生活圏内での就業は限られたものとなり、勤務地が遠距離のところや海外赴任が増えたことで、家族の絆も弱くならざるをえないから、さまざまな不安や問題が生じています。

 かつては生活の場である地域や会社が経済的なよりどころ、精神的なよりどころとなっていたから、人々は孤独な思いを持たなかった。悩みを聞いてもらい、お金がなければ融通してもらい、家族の死や災難にも、ともに手を携え援助されたから安心でした。満たされていなくても我慢や忍耐で乗り越えることができました。

 近年は山村や漁村の小集落を除くと地域共同体のかたちはなくなって、自治組織が設けられていますが、私生活には互いに踏み込まなくなりました。かつてはお互いの気心がふれあって、家族的つき合いがあり、悩み事も共有されたから、社会生活者としての不安感も現代と比べようもなく小さなものでした。

人類と宗教

 宇宙が誕生して、太陽系の星々の中に地球が生まれて、そして何十億年が経った後、地球上に一つの生命が生まれた、これが命の始まりです。そして太古の昔からさまざまな命が進化して、多くの種が生まれかわり死にかわりしてきました。人類もその一つですが、他の生きものと比べて知能が発達していったから、いつの間にか地球上では際だった存在になりました。 

 そして、数多ある生きものの中で、人間だけが宗教を持つようになりました。それは他の生きものとちがって、人間は死ぬことを認識しているからでしょう。命の受け継ぎを思い、先祖を崇拝し葬祭をするのも人間だけです。そして死を恐怖と感じたり、死後のことまで考えるところから、宗教をもつようになりました。

 人類史上においては、人類の平和と個人の幸せな生き方を願い、さまざまな宗教が生まれました。ところが、人間の考える唯一全能の神である一神教のもとでは、その排他性のために戦争やテロが絶えないという矛盾をつねに抱えており、とりわけ近年はその矛盾が頻繁に噴出して悲惨な状況が世界各地に起こっています。

 そして近年、アジア、アフリカ、南米において、それぞれの民族が太古の時代から培ってきた固有の文化や宗教といったものが、グロバルエコノミー(地球経済)のもとでは、極端な格差社会の現実を前にして、誇りや自信を喪失しているかのようです。また共産主義のみならず人間の頭でっかちな認識が生み出したイデオロギーは、空虚な仮想現実でしかありえないから、独裁国家を形成して人権を抑圧しています。

 仏教においても、正しい導きに依らなければ、迷い道に入り込んでしまう。たとえば、名号や題目を一心に唱えて陶酔境にひたると、ことごとく妄想してしまう。特定の経典に固執して排他すれば、分別心ばかりが強くなって真実を見失ってしまう。真言を特異な行の呪文だと錯覚して、超自然的な現象を信じるという幻覚(オカルト)に陥れば、現実を見誤ってしまう。坐禅を悟りの手段として思慮をめぐらすほどに、迷妄の闇から抜け出せなくなってしまいます。

 一神教とともに西洋の文化が流入してくるまでは、日本には自然とか宗教という言い表し方はなかった。宗教は人間の知恵から生まれてたものですが、人々の心のやすらぎと、社会の安定と、自然との調和をもたらします。そして、時々のめまぐるしく変動する世界の情勢において、人類の平和と繁栄にも寄与してきたのでしょう。だが、欲望の渦巻くこの世において、宗教は万能でなく、おのずと限界があります。あえて混迷に落としこむ迷信もあり、悪の根源のような本性が潜んでいる危ういカルト(狂信者の宗教集団)まであるようです。

 いうまでもなく宗教とは、あくまでも自分自身の生き方を変えて、幸せを願いもとめようとするものであり、宗教が教義や教団の力で世の中を変えようとすれば、その宗教は自滅していくでしょう。日常に自分の生き方を変えることで悩み苦しみをやわらげ、やすらかな生活ができるということですから、日常生活そのものでなければ、それは宗教ではありません。

孤独な時代の生き方

 21世紀は20世紀と異なることが多いから、生き方を変えなければなりません。あまりにも早く何ごとも変化していきます。生活圏が広がり、文化・宗教・習俗・価値観が異なる人々と交流するようになりました。テロや戦争の恐怖を感じながらも、さまざまな民族とふれあう時代になりました。

 SNSとは、人と人とのつながりを促進・支援する、コミュニティ型のネットサービスです。ネット社会においては、見知らぬ人とのつながりが無限大に広がっていきます。けれども、あくまでもバーチャル(仮想)なものであり、人の肌のぬくもりや息づかいを感じることもないから、孤独な個の存在が互いに無機質なネット関係でつながっているにすぎないようです。

 日本人は古来より命の源である先祖を祀ってきました。命の源から今に到る命の流れと、その命を受け継いでいることに、尊崇と感謝の念をもって先祖を祀ってきました。そして天地自然に畏敬の念を持ち礼拝することで安心安全の加護があると信じていたから、生老病死や災害なども自然なこととして受けとめることができました。しかし現代の日本人には先祖と天地自然にたいする尊崇と感謝の念が薄らいでおり、それにともない日常に不安心や悩みをもっている人が多くなってきたようです。

 もし不安や不満もなく、心が安らかであれば他をいじめたり、パワハラなどの行動をすることもないでしょう。なぜ不安や不満心を持ってしまうのか、それは自分の生きる目標が明確になっていないからです。もし、生きる目標がはっきりとしておれば、それに向かって邁進しようとするから、自己の向上心を鼓舞して、その目標に到達したい願望から、ひたすら情熱を傾けるでしょう。

 自死を思いつめたり、不治の病に死の恐怖を感じて、この世とおさらばだと思う時に、見慣れた景色や枯れ草までもがキラキラとかがやいて見えることがある。その時に自分の瞼をふさいではいけないのです。なぜならば、それが命のかがやきそのものであるからです。人が悩み苦しむのは生老病死の四苦でもなく八苦でもない。それは、生きる意味がわからないからです。生きる意味がわかれば、その人は悩み苦しむことをしないでしょう。

 どうしてこの世に生まれてきたのか、どうして今生きているのか、人生をおもしろく生きるのにはどうすべきか、だれでも、そんなことをふと思うことがあるでしょう。それでは生きる意味とは何でしょうか、生きる目標とは何なのか。仕事だとか趣味だ、好みだといえばそれは個々人によって異なるでしょうが、人間としての普遍的なものがあるとするならば、それは老若男女に関わらないはずです。

 1200年前、平安時代の日本人の平均寿命は現代人の半分で、わずか50年前までは人生五十年といわれてきた。今では人生30,000日で10,000日も長生きするようになったが、はたして意義ある生き方をしていると実感できているでしょうか。生きる意味を思索することなく、今だけよければそれでよいというのではお粗末なことです。

新たな時代・・・キーワードは「共生」

 どうしてこの世に生まれてきたのか、どうして今生きているのか、生きる意味ですが、それは世の中が必要とするから生まれてきたのでしょう。世の中に必要だから生かされているのでしょう。だから、世の中で必要とされる人になることかもしれません。世の中に必要とされる人とは、個性を発揮して、世の中に必要とされることをさせていただくことができる人をいうのでしょう。それが自分にとって何なのかを見つけること、それが生きる意味かもしれません。

 何のために生きているのか、生き方を間違えていないだろうか、ふとそう思う時には、背筋伸ばして姿勢を正し、肩肘張らず気楽にして、吐く息、吸う息すなはち呼吸を整えてみることです。そうすることで自己を見失わず、足は大地を離れずに生きていけるでしょう。

 一呼吸すると、自己の古い細胞が消滅して新しい細胞が生まれている。常に体は新陳代謝しているから、心も新陳代謝しないとギャップが生じる。生きているのは今だから、過ぎ去ったことを引きずらず、どうなるかわからない未来を不安に思わず、いつも身心ともに新鮮な生き方を心がけたいものです。

 日本における歴史や宗教は、400年間を区切りに大きく変わってきました。今年は西暦2017年ですが、新たな時代である400年間の始まりの時期にあります。21世紀という新たな時代に生きる者として、人としての生き方を考えてみるべきでしょう。それは人類の生き方でもあります。仏教や日本固有の宗教がその生き方を示唆しているようです。この世とは宇宙であり、そこに存在するすべての生きとし生けるものの命と天地自然に、尊崇と感謝の念を持ち続けることがまずその基本でしょう。

 新たな時代のキーワードは「共生」の世です。この世とは共生きの世であるから、ことごとくが関係してつながっている。別物であると思えるものでも、どこかでつながっています。これがこの世だから、どの国の人々も民族も、自分本位の生き方でなく、他を利する生き方でなければ、共生きのこの世では生きていけないようです。

 生まれてきてよかったと思える生き方ができておれば、その人は悩みも苦しみもなく、幸せであるということでしょう。だから、生き方として、いつも懺悔の汗をかきながら、真理の大地を耕すべきでしょう。そして共生きの世だから、自分が世の中に必要な存在であり続けるために、自己の幸せはさておいても、まずは他を幸せにしたいとの願いに生きる、すなわち利他を行じ続けたいものです。

 いつでも、そういう生き方(修行)をしているかぎり、感性がとぎすまされて真実真理にふれることができるから、身心ともに活き活きとして悟り(証)のよろこびが実感できるでしょう。人生、いつでも今が出発点だから、自己に向き合って、この一瞬をよろこびの心で生きたいものです。

 
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