2017年6月1日 第221話
             
生きる姿勢

      すべてのものは苦なりと、よく知恵にて観る人は
       この苦をさとるべし、これやすらぎにいたる道なり。
                             法句経
       

悩み苦しみの迷路


 人は誰でも悩みや苦しみを持ちながら日常を過ごしています。そして、その悩みや苦しみの迷路から抜け出せないでいます。でも、悩みや苦しみを解消したいと願っています。そこで、どうすれば悩み苦しみの迷路から抜け出せるのかを考えてみましょう。

 お釈迦さまは、悩み苦しみから逃れるためにその道筋を示されました。
 それは、「その苦とはなにか」
 「なぜその苦が生じたのか」
 「その苦が消滅するということはどういうことをいうのか」
 「どうすればその苦を消し去れるのか」
 お釈迦さまは、このような筋道にそって苦悩を説かれ、そして衆生を済度されました。この筋道にならって、それぞれが抱える悩み苦しみを当てはめてみればよいでしょう。

 悩んでいる人に、なぜ悩んでいますか、何を悩んでいますか、と聞けば、職場のだれそれさんが、友達がどうの、親がどうしたとか、このように他の人が悩みの原因だといわれることが多いようです。けれども、他に原因を求めても、悩んでいるのは自分なんだから、自分が生き方を変えなければ、悩みは解消しないでしょう。

 まずは、悩み苦しみから逃げないということでしょう。生きているかぎり悩み苦しみは無くならないでしょう。それで、悩み苦しみから逃げても逃げきれないのであれば、それと向き合うのが得策です。そして先送りしないで、今、向き合う、先送りするとその悩み苦しみは増幅していくから、ますます深刻なものになるでしょう。

人生は糾える縄のごとし

 悩んでいる、苦しんでいるというのは、何を悩んでいるのか、どのような苦しみであるのか、そのことをまず知ることでしょうか。なぜその苦が生じたのか、その苦は、今、生じたものか、ずっと以前からあったものかということですが、以前からあったものならば、どうして今になって、それが深刻なものになったのかを考えてみましょう。

 その悩み苦しみは、自分がつくりだしたものであるのか、他からきたものか、悩み苦しみが生じたその背景は何か、ということについて考えてみると、その原因がわかるでしょう。
 そして、その苦が消滅するということはどういうことをいうのか、その苦が解消できた状態とはどういうことをさすのでしょうか。その苦は、はたして解消可能なことか、解消できるとしても簡単なことか、難題であるかによっても解消法はちがってきます。

 どうすればその悩み苦しみを消し去れるのかということですが、はたしてそれを消し去るのがよいのか、悩み苦しみとともに生きるのが望ましいのかということも考えてみたい。どうすれば上手くつきあっていけるのか、悩み苦しみと楽しく過ごせるのか。さまざまな思考回路をめぐらして、有効な方法を導き出せれば、どんな深刻な悩み苦しみも消滅していくでしょう。

 生きていこうとすれば、悩み苦しみは避けて楽ばかり、というわけにはいきません。したがって、「人生は糾える縄のごとし」で、苦もあれば楽もあるという、苦楽をともにした生活を強いられます。だから、その悩み苦しみと上手につきあう、そのつきあい方を学ぶ、工夫するということでしょう。
 それには、まず、過ぎ去ったことを引きずらないことです。そして、今の課題と向き合うことができないという言い訳に、過去のことを持ち出さないことです。

向上心と利他心

 いずれの悩み苦しみであっても、それを解消するのは自分自身ですから、経験や知識能力、技術といった人格的な能力が決め手になります。どのように、悩みや苦しみと向き合うかは、その人の向上心の程度が生き方の上手下手を左右するでしょう。したがっていつも向上心を高くかかげて、人格の向上をめざすこと、知識技術能力を高めることです。

 この世は共生きの世界ですから、自己中心で行動すれば、共生き世界であるという道理にさからってしまい、自己本位で生きようとすれば、どうしても生きづらくなり、悩みや苦しみが生じることになる。それで、この世は共生きの世であるから、利他心があれば生きられるということでしょう。

 低きところにあまんじておれば、限りない迷いの渦に巻き込まれてしまいます。より広い視野で、より高い見識をもってより高く水準を上げることを心得るべきでしょう。
 迷いの嵐が吹いても、低きところから高くへ上がれば、もうそこは晴天で、迷いの雲もありません。怒濤逆巻く荒海も、深い海の底ではおだやかなものです。

 人は向上心があれば、不満心も、不安心も生じないということでしょう。なぜならば、自己の内心に問いかけて、自らの向上心をさらに鼓舞していこうと思うからです。
 共生きの世には利他心がなければ生きられません。利他心は大慈悲心です。慈心とは他の苦しみや悩みを取り除いてあげる、それができなければ、すこしでも軽くしてさしあげることです。悲心とは他の悲しみや苦しみを自分と同じくすることです。

生きる姿勢を正し、目覚めようとする心を発す

 私たちは本来の自己である自分という生命体に素直な生き方をすべきところ、自我の欲望のおもむくままに利己的な生き方をしているから、自分自身で悩み苦しんでしまいます。生きる姿勢を正し、目覚めようとする心を発(おこ)すこと、すなわち向上心を鼓舞してより高く自己の向上をはかるべしということでしょう。

 背筋のばして息を整えることによって、悩み苦しみのない本来の自己である生命体にたとえ一時でもたち帰れます。生かされている自己という生命体である自分の本性(仏性)に気づき、そして他に生かしてもらっているから他を生かし他とともに生きる、この生き方を心掛けることによって悩み苦しみを払拭した生き方ができるでしょう。

 目覚めようとする心を発すか否かが、我が人生にとっての幸不幸の分岐点となるでしょう。自分自身の仏心に目覚めなくして、他に幸せを探し求めても、空虚なものを追いかけているにすぎません。自己の仏心を呼び覚まそうと努力するところに、人生が楽しくなるでしょう。

 日常の生活で悩み苦しみと向き合い、それを解消し、また上手くつきあえる、そのような体質に自分を改善する。そのために「生き方上手の術」を身につける自己訓練をしていくべきです。
 ところが「生き方上手の術」を駆使できたとしても、また新たな悩みや苦しみが生じてきます。究極の「生き方上手の術」とは、苦しみや、悩みごとと上手につきあい、「世の中というものは、なるようにしかならぬものなり」と思えるようになれば、それが悩みも苦しみのない生き方になるでしょう。
 

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