2017年12月1日 第227話
             
 
自己に親しむ


      釈迦牟尼仏いわく、明星出現する時、
      我と大地有情と同時に成道す。
                   正法眼蔵・発無上心


お釈迦さまは宇宙の真実に目覚められた

 禅の修行道場では、12月の初めの一週間に摂心という修行の期間をもちます。食事もむろん禅堂でいただきます。坐禅を連続させるのですが、どうしても摂心のはじめの頃は自意識がはたらき、足の痛さばかりが気になって、坐禅を離れたい気持ちがでてきますが、ずっと続けていますとやがて坐禅のみになっていきます。

 この摂心の期間は四六時中坐禅に撤する、只ひたすら坐るのですが、落ち着いて坐れます。それもそのはずで、坐禅のほかはなにもないのですから、坐禅きりということです。

 12月8日はお釈迦さまがおさとりになられ日です。それでこの日が成道の日とされています。これは2500年前のインドでのことです。ではお釈迦さまは何をさとられたのかということですが、それは法(ダルマ)すなわち、宇宙の真実に目覚められたのです。

 お釈迦さまは、迷いを離れてさとりに至られるのに六年もの苦行をなさったと伝えられています。それは苦からの脱却でしたが、苦行によっても苦からのがれることができなかったのです。苦とは、自らの苦であるのに、思いどうりにならないのが苦というものです。宇宙の真実に目覚められたことで、苦からはなれられたのでした。

坐禅は、我もなく坐のみ

 苦のあるところに安心はありません。苦を感じているのも、安心を求めているのも自我そのものです。人は生まれる前はなにもない、実体もなく、苦悩もない。自我がなければ迷いはないということです。生まれて成長していくにつれて自我に目覚めていきます。それにともない生きていくことの悩みや疑問が生じてきます。
 だから苦を離れて安心を得るためには、自我の働きを止めた自分になればよいということでしょう。道元禅師は、自己をわすれるところ自ずから万法に証せられるといわれたが、このことを指し示しておられるのでしょう。

 自分という主体を自己主張するところに自我がむきだしになる。それで悩みや苦しみがともなってきます。これが日常の私たちの姿です。
 道元禅師は「仏道をならうというは、自己をならうなり、自己をならうというは、自己をわするるなり」といわれたが、自己をわすれれば自分はないのですから、あるのは真実の性である仏性のみです。その仏性が露わになるのが、坐禅です。

 無心とは、まだそこには無心という私がある。無心もなく、私もなしというところでなければ、坐禅になりません。頭で思考すること、思量分別を離れてしまわないと、坐禅になりません。道元禅師は不思量のところを思量しなさい、これすなわち非思量なりと教えられました。
  悩みをなくするために坐禅をするとか、仏になるために坐禅をするという、坐禅をさとりの手段とすることは坐禅ではありません。只坐るこれが坐禅です。只坐るところに菩提があります。菩提とは一切の煩悩から解放された、迷いのない状態をいいます。

 迷いは自分に親しめばなくなるものですが、自我を離れることができないから、人は迷い苦しむのです。坐禅は自己主張をしたくてもできない姿勢をとることです。無所得無所悟に坐禅する。黙って只坐禅する、それだけでよいのです。こういうのが自我を離れる、自分に親しくなるということで、坐禅とは何を得るということなく、何を悟るということでもなく、只坐禅をすることです。日常の生活では、到底無理なことです、坐禅の連続である摂心では自己がよく調えられますから、とても貴重な時間を持つことができるのです。

我と有情と大地と同根、山川草木悉有仏性

 大地にしっかりと坐禅されたお釈迦さまは、宇宙そのものになりきっておられたから、宇宙のまっただ中におられるお釈迦さまも、満天に輝く星の一つでした。それで明けの明星が輝いたその時に「我と大地と有情と同時に現成す、山川草木悉有仏性」をさとられました。それは、お釈迦さまがおさとりになった感動の瞬間でした。お釈迦さまのことを仏陀といいます、目覚めた人ということです。

 悉有仏性とは、この世とは宇宙であり、宇宙に存在するものは、悉(ことごとく)が変わらざる真実の性を有しているということです。すなはち、宇宙の星々も、地球の山川草木も有情のものも無情のものも、むろん人間も微生物もことごとくが宇宙の存在の一つであり、ことごとくが変わらざる真実の性を有しているということです。

 お釈迦さまは悉有仏性をさとられました。お釈迦さまのさとられたものが法です。法とはこの世の真実のことです、それでお釈迦(仏)さまのさとられた真実を仏法といいます。
 この世とは宇宙そのものであり、その宇宙の始まりから宇宙の終わりまで、ちっとも変わらないことのあらわれが性です。 一切衆生は悉(ことごとく)仏性を有すことから、お釈迦さまは「悉有仏性」といわれた。

 仏性は天地いっぱいに満ちているから、森羅万象のいかなるものも仏性でないものはありません。この天地、宇宙がそのままに仏性です。この世は仏性という大きな宇宙であり、ことごとくが仏性である。いかされている生命は仏性です。坐禅は宇宙そのもの、仏性そのものになりきることです。
 この世は仏性で満ちているから、坐禅するところ、「放てば手にみてり、一多のきわならんや、かたればくちにみつ、縦横きわまりなし」と道元禅師はいわれた。

修せざるには現われず、証せざるには得ることなし

 坐禅は自らを調えることです。身体を調え、呼吸を調え、心意識の運転を調える。坐禅こそが自己の真の姿です。坐禅するところ、 仏性があらわになっている。自己が法に目覚めたことであり、それはさとりの自己です。お釈迦さまの坐禅は宇宙そのもの、仏性そのものになりきることですから、坐禅がそのままにさとりです。

 道元禅師は「坐禅は習禅にはあらず、大安楽の法門なり、不染汚の修証なり」と言われた。染汚とは分別心で汚されていることをいうから、修と証とを一つとして見ない。修行をしてさとりを開くというものでなく、さとるための修行でもなく、全力の修行がそのままさとりです。修と証を対立させないことが不染汚ということです。
 また「この法は人々の分上にゆたかにそなわれりといえども、いまだ修せざるにはあらわれず、証せざるにはうることなし」(正法眼蔵・弁道話)。坐禅を修することが、そのまま証(さとり)である、したがって、坐禅はさとりを求めるための習禅ではない。「修証一等」であると道元禅師は教えられた。

 坐禅は坐るという行為ですが、坐禅しているときだけが修証一等であり、坐禅していない時はそうではないというのであれば、坐禅の時だけがさとりであり、その他の日常は迷いであるということになります。
 修行がそのまま証であり、修行のほかに証なしというのは、仏法は行であるから、料理するのも掃除も、洗面、入浴、用便、喫茶喫飯も坐禅そのもので、それは修行であり証です。何ごとにつけても邪念を払拭して、そのものになりきって、それを修行することがそのまま証であるということです。

 日常が一歩一歩の仏道修行だから、四六時中が修行の主人公であり、悟りの主人公であるべきです。日常の何ごとにつけても、どういう仕事に従事していても、日々が修行である。日常の喫茶、喫飯のこころを平常心といいますが、それは日常のこころがそのままさとりのこころでもある。すなわち平常心是道と心得ておくことが大切なことでしょう。


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