2018年12月1日 第239話
             
不自讃毀他戒(ふじさんきたかい)
       
        第七不讃自他
          乃仏乃祖尽空を証し、大地を証す。
          あるいは大身を現ずれば空に中外なく、
          あるいは法身を現ずれば地に寸土なし。
                                 教授戒文



褒められるより(そし) られるな

 グローバル企業のトップでもある日産自動車のカルロス・ゴーン会長が有価証券報告書の虚偽記載の疑いで逮捕されたという報道が世界中を駆け巡りました。経営破綻寸前の日産を救ったゴーン会長ですが、権力が集中しすぎたためにガバナンス(統治)の負の側面が出たという説明が会社側からありました。フランスのルノーとの関連で、経営権をめぐるつばぜり合いもあるようです。

 有価証券報告書の虚偽記載については、あまりにも高額な役員報酬は日本では馴染まないということもあって、過小表記につながったといわれています。
 だが、自分を誇示するための私的な用途に会社の金が流れていたとか、自分の実績を誇張した本を出版するなど、ゴーン会長は自己顕示欲もかなり強いお方のようです。

 「実るほど頭の下がる稲穂かな」という言葉がありますが、経営の神様と称された松下幸之助さんは、謙虚さを忘れてはいけないということを口癖にされていました。またミスター合理化として臨調に辣腕をふるわれた土光敏夫さんは、質素な生活をされていたので、メザシの土光さんとして親しまれました。
 企業は人なりで、従業員を大切にし、経営者は謙虚であり質素であるべきだとする日本の経営哲学とは対照的に、ゴーン会長はコストカッターと呼ばれ、従業員をコストとして切り捨て、株主の利益を優先させ、経営者報酬は高額であるべし、という日本にはなかった経営手法を用いました。

 「褒められるよりそしられるな」とは、他人から褒めたたえられることよりも、まず非難されないように身を処すべきであるということです。慢心がいつしか欲心を制御できないところに来てしまったら、それをたしなめて意見するものもいなくなってしまい、社会的制裁を受けることになったのでしょう。

慢心とは、じまんするこころ

 日常会話にしばしば出てくる「我慢」という言葉は、耐える、辛抱するの意味ですが、もとは仏教語で、煩悩の一つで、強い自我意識から起こる「慢心」のこととされています。この「我慢」は仏教辞典によると、「七慢」の一つに数えられています。その七慢とは次の七つです。

①慢・・・・劣った人に対して、自分の方が秀れていると思う心。
②過慢・・・自分と等しい人に対し、自分の方が秀れていると思う心。
③慢過慢・・相手の方が秀れているのに、自分の方が秀れていると思う心。
④我慢・・・自分の考えを唯一に思って、おごり高ぶる心。
⑤増上慢・・まだ悟ってもいないのに、悟っていると思い込む心。
⑥卑慢・・・人よりはるかに劣っているのに、あまり劣っていないと思う心。
⑦邪慢・・・悪事をしても、罪の意識ももたぬ思い上がりの心。

 「自分の考えを唯一に思って、おごり高ぶる心」という意味の仏教語、「我慢」が日常会話では、耐える、辛抱するの意味で使われています。この「我慢」がどうして辛抱するという意味に用いられるようになったのかということですが、たぶん自尊心という我が、ある程度強くなければ、苦難を辛抱するだけの気力が出ないと考えられたところから、辛抱の意味に用いられるようになったのではないかといわれています。

  自分を褒めて他人をけなす、そうすると自分の評価が高まると思っているかもしれませんが、自分に自信がないから、あえて自分のことを誇張したがるのでしょう。自分のことを褒めて欲しいから人に褒められる前に自分を褒める。ところがそれは、かえって自分の評価を下げてしまうようです。虚勢を張ると、どこまでも張り続けなければならなくなります、そこには息苦しさがついてまわります。

峰の色谷の響きもみなながら、我が釈迦牟尼の声と姿と

 谷川のせせらぎ、青山上空の白雲、夕日に照る紅葉、竹林の静寂、道元禅師は「峰の色谷の響きもみなながら、我が釈迦牟尼の声と姿と」こう詠まれました。山川草木はそのままに妙なる真実真理の説法をしています。
 雨奇晴好という言葉がありますが、晴れも好し雨も好しということです。ところが人間は、この花は綺麗だが、こちらは好まないなどと、自分の思いでもって分別してしまいます。

 自然界は草木も昆虫も動物も、どの生きものも個性豊かであり、いずれもが生命の素の美しさに輝いています。もとより人には本来の自己であるところの仏性が具わっていますから、なにも厚化粧することもないのに虚栄心という煩悩がそうさせる。背伸びすることもないのに、自慢心という煩悩がそうさせてしまう。 それはすっぴんに化粧するようなものです。すっぴんに厚化粧すれば素の美しい輝を消し去ってしまいます。

 富士山を眺めているとその雄大さに見とれてしまいます。真白き冠雪の輝きに魅了され、裾野の広がりとあわせその雄姿に、なにやら誇らしきものを感じます。
 また息を切らしてやっとの思いで登ってきた山の頂に立ったとき、眺望が開けて一面に広がる大自然の光景に我を忘れ、その美しさに自分も溶け込んでしまいますが、ふと我にかえったとき、自然界と一つになった自分が誇らしく感じることがあります。


 春の芽吹きはみずみずしく生き生きとして、夏にはそれぞれの花を咲かせ、秋には木々が色づき錦織なし、冬は枝の霜や雪が朝日に輝き、みな美しい。自然界を褒めることもなく、そしることもない、それは素の美、つまり飾らずとも美しいからです。

正しき人の香りは四方に薫る

 「花の香りは、風にさからいて薫ぜず、されど、善き人の香りは風にさからいて薫ず、正しき人の香りは四方に薫る」と法句経にあります。
 世の中には、その人がそばにいるだけで周囲がなごみ、明るくなるような雰囲気を持つ人がいます。これは善き人のそばには、ちょうど、後光が照らすようにその周囲が明るくやわらぎ、そのかぐわしい香りがほのかに漂い、風にさからってどこまでも滲みわたっていきます。私たちの周囲にもそんな徳の香りの高い人物はおられるでしょう。

 自慢話をしたり、手柄話をするのは、人情ですが、その響きはけっしって美しいものではありません。やればやるほどに醜さが際立ってくるというものです。ほんとうの人格者であるならば、語らずともその人の品位はあらわれています。自慢して、他人をけなすという狭い根性でなく、おおらかであるべしということでしょう。

 乃仏乃祖とは諸仏諸菩薩のことで、諸仏諸菩薩は大空に、大地に、すなわち三千大千世界にあますところなくお姿を現しておられる。山川草木など自然の光景がそのままに諸仏諸菩薩の現れです。そのような広大無辺の世界に私たちは存在しているのですから、自分を褒めて、他人をけなすなどということは、まことにちっぽけなことです。

 不自讃他とは、讃は褒める、毀はそしるということですから、自分のことを誇らず他人をけなさず、そういう意味になります。自画自賛という言葉がありますが、自分の気持ちとして、自分が自分を褒めるとしても、それは自分の内にとどめておいて、けっして他人をそしることがあってはならないのです。

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