2019年7月1日 第246話
             
少欲とは貪らないこと

       かの未得の五欲の法中において、
       広く追求せざるを名づけて少欲となす
 
                    正法眼蔵八大人覚
 

「和食」がユネスコの無形文化遺産に登録されました

 日本には多様で豊富な旬の食材や食品、清らかな水、風土に適した発酵技術、栄養バランスの取れた食事、年中行事や人生儀礼との密接な結びつき、などの特徴をもつ素晴らしい食文化があります。日本の食文化については、世界的に見ても特徴的であり、諸外国からも高い評価を受けています。ユネスコの無形文化遺産に登録されたことは、日本の食文化が世界から認められたということです。無形というのは、かたちのないものという意味です。

 日本では食生活が洋風化し、外食産業が拡大するなかで、和食離れが起こっていますが、ユネスコの無形文化遺産に「和食」が登録されたことによって、日本人の食生活や食文化が内外で見直されています。海外では健康志向から日本食ブームが起こっています。

 日本料理とは日本でなじみの深い食材を用い、日本の風土の中で独自に発達した料理であり、日本風の食事を和食と呼ぶ。「和食」について広辞苑には、日本風の食物、日本料理で洋食の対語とされている、とありますが、「和食」とはいったい何なのかということが、世間ではあまり理解されていないようです。

 うま味成分が日本料理の味をつくるということで、一流料亭の味の秘訣が出汁にあることをマスコミが紹介しています。選び抜かれた昆布と鰹節は丹精込めたそれぞれの産地業者の手によって、また風土に適した発酵技術が醤油、味噌,酒、酢を生みだし、豊かな和食文化を支えています。一流料亭では旨味の元となる昆布と鰹節をふんだんにつかって出汁を作りますが、捨てられていく食材がいかに多いかということは語られません。

感謝の心を忘れては、和食文化は成り立たない

 日本人が飽食を享受している一方で、世界には食べるものがなくて人類の一割もの人々が飢えに苦しんでいます。また日本では若者や高齢者に孤食が広がっています。学校での食育と家庭での食卓の大切さ、親の味が子に愛情食として伝えられていくことなど、食が見直されるべき時代でもあります。「いただきます」と「有り難い」という感謝の心を忘れては、和食文化は成り立たないでしょう。

 私たちはもったいないという言葉を忘れてしまったようです。一粒のお米にも、一枚の菜っ葉にも命が宿っています、その命をいただくことで生きていけるのですから、食べ物を捨ててしまうなど無駄にはできないはずです。
 また、好きな食べ物、高級な食材に心ときめかせたり、嫌いな食べ物や粗末な食材だからと粗雑に扱うことなく、それぞれの食材の持ち味を楽しむべきです。

 近年は季節を問わずあらゆる食材が年中出回っていますが、食物には旬があるということも、栄養のバランスにも心すべきです。台所は料理する人の心を映す鏡ですから、食器は自分の目の玉の如くに大切に扱い、台所は清潔に保たねばなりません。盛りつけ方にも心を配る気持ちがあれば食生活が豊かなものになるでしょう。

 禅寺では食事は大切な修行です。八百年前に道元禅師は「典座教訓」を著して、食事を作ることは大切な修行であることを説かれた。また「赴粥飯法」を著して、食することも修行であると「食べる心構え」を説かれました。

「五観の偈」は少欲知足の教なり

[五観の偈]
一には、功の多少をはかり彼の来処を量る。
(多くの人の苦労を思い感謝していただきます)
二には、己が徳行の全缺をはかって供に応ず。
(己の行いを反省していただきます)
三には、心を防ぎ過を離るることは、貪等を宗とす。
(妄心や三毒を除していただきます)
四には、まさに良薬を事とするは形枯を療ぜんが為なり。
(心身の良薬としていただきます)
五には、成道の為の故に今この食を受く。
(円満な人格完成のため合掌していただきます)

 医食同源と言いますが、身心の健康の維持とは食事を大切にすることからはじまります。「五観の偈」は食前に唱える言葉ですが、少欲知足の教えです。日常生活において、食することにおいて感謝の気持ちがあれば心豊かな生活になるでしょう。少欲とは貪らないことであり、足るを知るということです。

 禅の修行道場では朝晩に梵鐘を打つ。朝の坐禅の時には暁鐘が、夜の坐禅の時には昏鐘の音が聞こえてくる。ゴーンと聞こえた時、この一声が人生最後の音かもしれない、もう二度と聞けないかもしれないと思うとき、またゴーンと聞こえてくる。そして鐘が打ち上がると坐を解く。

 生きているのは食事をいただいてまた次に食事をいただく、その間が生きている時間かもしれません。だが、生きているというのはもっと短かく、梵鐘一声の余韻が消えないうちか、瞬きの一瞬か、いずれにしても確かに生きているのは今、この一瞬、刹那です。禅堂で食事をいただくとき、この食事が最後の食事となるかもしれないと、ふとそう思うことがある。そう思うと、いただく食事がいっそう味わいのあるものになる。

少欲ある者はすなわち涅槃あり

 もし、もろもろの苦悩を脱せんと欲せば、まさに知足を観ずべし。知足の法はすなわち是れ富楽安穏の処なり。知足の人は地上に臥すといえども、なを安楽なりとす。不知足の者は天堂に処すといえどもまたこころにかなわず。
「お釈迦様最後のご説法・遺教経」

 多欲の人は利を求むること多きが故に苦悩もまた多し。少欲の人は無求無欲なればすなわちこのうれいなし。・・・・少欲を行ずる者は、心すなわち担然として憂畏するところなし、事に触れて余り有り、常に足らざること無し。少欲ある者はすなわち涅槃あり。是れを少欲と名づく。
「お釈迦様最後のご説法・遺教経」 

 かの未得の五欲の法中において、広く追求せざるを名づけて少欲となす。
「道元禅師最後のご説法・正法眼蔵八大人覚」
 五欲とは財・色・食・名・睡眠の欲で、多欲の人は、おのずから苦悩もまた多い。欲を少なくする人は、望み求めることもなく、この苦しみのうれいもない。欲を少なく保てる人には安らぎがある、これを少欲と名づく。
 少欲こそが安らぎなりと、お釈迦様が最後にお説きになった教えを、道元禅師も自らの最後の教えとしてこのように説かれました。

 財産があり、物があふれて、飽食にふけっても、なを心さみしいのはなぜでしょうか、満たされないのはなぜでしょうか。
 少欲を行ずるものは、心はおのずから安らかである、憂え恐れることもなく、いつも満ち足りています。少欲であれば心は静まり涅槃となる。これを少欲と名付けるとお釈迦様は説かれました。人の生き方の根本のところがこの少欲知足の教えでしょうか。

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