2020年1月1日 第252話
             
幸不幸の分岐点

    学道の人は、後日を待って行道せんと思ふことなかれ。
 只、今日今時を過ごさずして、日日時時を勤むべき也。
           
正法眼蔵随聞記


煩悩こそがストレスの原因です

 人には利己的な生き方をしてしまう根源である貪瞋癡(むさぼり、いかり、おろかさ)の三毒の心があり、この三毒の心が働くから煩悩が生じます。次々と湧いてくる煩悩こそがストレスの原因です。三毒の心のおもむくままに勝手気ままな自分本位の生き方をして、自分で悩み苦しんでいるのが凡夫の姿でしょう。

 私たちは自我の欲望のおもむくままに利己的な生き方をしているから、悩み苦しみを自分自身でつくってしまい、それがストレスの原因になっているようです。
 ストレスは身体の疲労や精神的な圧迫感によって体内に起こる歪みです。現代人は職場でも、学校でも地域社会でも、家庭においても、日々何らかのストレスを感じています。

 社会生活をしている限り、日常的にストレスから逃れることはできません。ストレスが原因で精神的な不安や悩みをかかえて日々生活をしています。ストレスにつながらない強靱な精神状態を保てればよろしいが、なかなかそうもいきません。ストレスが解消されないと、精神的な不安や悩みはさらに深刻なものになり、身体まで壊してしまい、悪くすると家庭崩壊や人生の破滅につながります。

 ストレスを解消できればよろしいが、なかなかそうもいかないから、欲望のおもむくままに生きるのか、仏心を呼び覚まして生きるのかが、ストレス社会を生きぬく幸せの分かれ目のようです。この迷いの世界で目覚めた生き方をすることが仏教の目的です。

人間の尺度から、宇宙の尺度への転換

 この世とは自分の意のままにならない苦の世界であるといわれますが、はたしてそうでしょうか。生きている限り、苦しみや悩みは尽きません。一つの苦しみや悩みが解消できても、また新たな悩みや苦しみが生じます。なぜ悩みや苦しみが絶えないのかということですが、その原因が他にあるのでなく、自分自身にあるからです。だから生き方を変えるということに気づくべきでしょう。 

 悩み苦しみの根源である煩悩が燃え上がらぬように、煩悩の炎を滅除せよということです。ところが、人は煩悩の入れ物ですから、尽きることなく煩悩が湧いてきます。悪貨が良貨を駆逐するといいますが、煩悩が仏らしさを駆逐してしまうと、心身は乱れて、悩み苦しみを自分で招いてしまいます。悩み苦しみが深刻なものであれば、心身ともに病んでしまい、最悪の場合には立ち上がれなくなるから、自己管理はとても大切です。

 お釈迦様は六年もの長きにわたる難行苦行の果てに、悩み苦しみの極限に至られた。そして悩み苦しみをそのままに受けとめて菩提樹下で坐禅に入られました。やがて夜の闇が明けんとする十二月八日の黎明に、明星の輝きをご覧になった。その時、天と地と生きとし生ける一切のものと、お釈迦様ご自身も、ことごとくが真理の輝きを放っていることをさとられたのです。

 お釈迦樣は煩悩そのものである自己という人間の尺度を宇宙の尺度に替えられたことで、おさとりになられたのです。そのさとりはサンスクリット語の音写で、阿耨多羅三藐三菩提(あのくたらさんみやくさんぼだい)「この上ない正しいさとり」と訳されています。お釈迦様のこのさとりが二千五百年の時を経て受け継がれてきた。これを自分自身の上に実現して生き方とすることが仏教です。


混迷の時代を生きぬくために

 自己を先に立てて万法の真実を明らかにしようとすれば迷いとなり、万法の側から自己を照らし出されればさとりとなる。万法に証せらるるとは、さとらされるということで、自己の執着心を放下しなければ万法に証せらるることはない。
 仏道を学ぶということは、自己を学ぶことで、心身を脱落せしめるとは、万法と自己とが一体となることであり、それが万法に証せらるることだと道元禅師は言われました。

 自意識の働きを止めて万法と一つになるから、坐禅は修行であり、さとりです。さとりの実践が只管打坐(しかんたざ)です。姿勢を正して、しっかりと大地に自分の身を調え、息を調え、心を調えよ、お釈迦様は良く調えし我が身こそ仏なりと言われました。さとりの実践、それはお釈迦様の坐禅、すなわち、只ひたすらに坐ることだと道元禅師は教えられた。

 人はストレスを感じて日々生活をしています。少し時間があれば、坐禅のように足が組めなくても、正座でも椅子でもいいですから、五分でも十分でも静かに坐って、背筋を伸ばして姿勢を正し、肩の力を抜き、呼吸を調える。お腹の底からゆっくり吐き出す呼吸法でリラックスする。いつでもどこでも、坐るという一時を持つことをおすすめします。

 混迷の時代を生きぬくためには、世相に翻弄されず、本当のところを見失わないように眼を見開くべきです。自身の仏心を呼び覚まさずして、他に幸せを探し求めても、空虚なものを追いかけているにすぎません。自分自身の仏心を呼び覚まそうと努力するところに、人生は楽しいものとなるでしょう。

鳥は飛び方を、魚は泳ぎ方を変えられない。人は生き方を変えられる。

 人は何のために生まれてきて、何のために生きているのだろうか、執着による迷いの人生から、生き甲斐が感じられる人生へと転換したいものです。真実を求めようと努力する生き方こそが、目覚めです。この上もなき幸せとは、この努力を続けることです。人生、一生修行であり、修行こそがさとりすなわち目覚めです。目覚めようとする心を発すか否かが、人生の幸不幸の分岐点となります。

 人の一生は夢の如き儚いものです、毎日が初めての今日、初めての私だから、いつでも今が出発点です。今日の私は昨日の私でない、明日の私といってもすぐに今の私になり、過去の私になる。だから過去や未来にこだわらず、今の私を生きるべきです。自分の生き方を変えて、自己の人格を向上させることが混迷の時代を生きぬく力となるでしょう。

 歩歩是道場と言いますが、日常が一歩一歩の仏道修行だから日常の何ごとにつけても、どういう仕事に従事していても、日々が修行です。日常が仏道修行の道場だから、いかなる仕事であっても、その仕事が修行であり、その仕事を勤め続けることがそのまま証(さとり)に通じるということでしょう。
 迷い苦悩しながらの現実であっても、迷い苦悩していることが、そのまま真理と表裏をなしているから、日々の生活ぶりが仏道修行そのものということです。


 今日一日の始まりに気分を一新しましょう。毎朝一番に、背筋伸ばして姿勢を正し、肩の力を抜き、ゆっくりと息を数回吐く。朝一番の心の体操で今日一日が安らかになります。ストレスを感じても蓄積しない生き方をする、これがストレス社会を生きぬく術、すなわち幸不幸の分岐点でしょう。鳥は飛び方を、魚は泳ぎ方を変えられない、でも、人間は生き方を変えることができるのです。


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