2003年7月1日
   
   第54話  ほとけとともに、今を生きる
         
        お釈迦さまに、死後の命運についてお尋ねしても
        お答えにならなかったそうです

 


ご先祖さま

 火災で家を失った人が、ご先祖さまに申し訳ないという気持ちがはたらいたのでしょうか、燃えさかる炎の中、仏壇から位牌を持ち出しました。とっさの判断でしたが、この人にとって、ホトケさまはご先祖さまの位牌でした、ご本尊のお釈迦さまは焼けてしまったそうです。

 日本人は「ほとけさま」といえば、仏法の「仏さま」と、「ご先祖の霊魂(ミタマ)」をともに思い描くようです、けれども、心の奥底のホトケさまは「ご先祖の霊魂
ミタマ」なのかもしれません。「ご先祖の霊魂ミタマ」は位牌や墓石にホトケさまとしてまつられ、お盆には「精霊」として、精霊棚を設けて迎えられます。

 人が死ぬと北枕にして、枕かざりに枕飯と灯明が供えられ、悪霊がとりつかないように魔除けの刃物がおかれます日本人は民族的な霊魂観をもっています。
 日本人の信仰では、死霊すなはち死者の霊魂は、はじめは荒ブル魂(アラミタマ)であるが、子孫の供養を受けたる後は、和らいだ霊魂(ニギミタマ)になると信じられています。
 しかし供養や鎮魂の祀りが充分でないと、死者の霊魂はこの世を離れられずに子孫や係累に”たたる”と考えられて、その昔、怨霊やもののけ祓いが盛んにおこなわれました。

 やがて仏教が葬祭をとりしきるようになり、死者は剃髪し、仏の戒法を受けて仏の位に入り、戒名が授けられ、あの世においても仏道修行を続け、子孫の供養を受けて、死者の霊魂が親類縁者に”たたり”をおよぼすことがなくなったと考えられるようになりました。 


神棚と仏壇を同じ空間に祀る先祖崇拝は、日本人の信仰の原点です

 亡き人の御霊(ミタマ)が存続して、和御霊(ニギミタマ)の先祖霊となっていただくために、鎮魂の祭礼が重ね行われます。香華、灯明、飲食を供え、中陰、年回法事をつとめますが、これら供養は、報恩感謝の鎮魂祭礼であると信じられています。

 やがて死者の霊魂は和御霊(ニギミタマ)の先祖霊として仏壇にまつられ、長い年月を経ると、子孫を守護し幸福や豊作をもたらす祖霊神になると考えられています。祖霊こそ命の源であり、神棚と仏壇を同じ空間に祀る先祖崇拝は、日本人の信仰の原点です。

 この世のすべてのことは、さまざまな因(原因)や縁(いろいろな条件や環境)によって生じます.。人は「命の源である祖霊」から父母に至る、ぶっつずきの命をいただいて、縁起によりこの世に生れてきました。
そして無常の世です、すべてのものは一時も止まらずに生滅流転していますから、永遠の命というものはありません。

 亡き人が生前になした善悪の行為である業(ごう)は、肉体が朽ちても業の力はのこります。
肉体が滅して、跡形もなくなっても、生前の善悪の行為による業(ごう)、すなわち身と口と意(こころ)の行為である三業は、死後も存続して、すぐには消えないと考えられていますから、自分の行為はすべて自業であることを自覚して、今を充実して生き抜くことが大切でしょう。


命をいただく

 インドや東南アジアの国々には、人間の本質は不滅の霊魂であり、人は永遠に生死を繰り返すのだという輪廻転生の信仰があります。善い行為は善ないし楽をもたらし、悪行は悪果ないし苦をまねくという考え方にもとずいていますから、今生において善き生き方をすることが、よき来世への転生を約束するという、生き方の教えとして信仰されています。

 先祖霊をまつる日本人の信仰においては、亡き人の魂はこの世で先祖霊になるから、来世に生まれ変わりません、地獄や極楽などの六道にも転生しません。

 最近の子供たちは、成長過程において、老人と同居していない、身近に自然の生き物にふれる環境にない、命をいただくという実感の伴う食生活がなくなった、病院で死をむかえることが多くなった等々ですから、子供たちの、生き死についての受け取り方において、あたかもコンピューターゲームで再起動のボタンを押すように、蘇生したり、生まれ変われるというような感覚をもって理解している子供もあるようです。

 したがって、命が軽く受けとめられて、子供の自殺や、子供同士の悪質非道ないじめが後を絶ちません。コンピューターゲームを遊び道具として育った子供たちが、今、親や先生になっています。人生は一度きりで、生死の繰り返しがない、たった一つの「いのち」の重みを、大人が十二分に理解して、子供たちに愛情が豊かにそそがれて、そして命を尊ぶ心が育まれるように、教えていくことが大切でしょう。
 
永遠に変わることなく、不滅なるものはない

 この世に存在する天地一切のものは、一時も止まらずに生滅流転しています。また一つのものが存在するのには、そのまわりの一切のものとの因縁のつながりがあります。一つの例外もなく、因縁つまり生ずべき原因があって、生じたものであるから、必ずまた滅すべき原因つまり、因縁によって滅します。永遠に変わらず、不滅なるものはありません、だから霊魂も永遠不滅ではないということでしょう。

 長寿の時代になりました、三十三回忌を超えてさらに供養が続けられます。亡き人の御霊(ミタマ)が鎮まり、和御霊(ニギミタマ)となって、やがて「命の源である祖霊」に帰入していくと考えられてきました。それは真実なる永遠の生命、広大無辺の仏の御命として輝きを増し、天地自然の仏の世界に帰ることでもあります。こうして亡き人の御霊は年月を経るとともに、個の姿が薄らいでゆきます。盆には先祖霊として精霊棚に迎えて鄭重にまつり、正月には祖霊神として豊穣と安寧を願い祈ります。


 人は「命の源である祖霊」からのぶっつずきの命をいただいて、この世に生まれてきた、幸せな一生をおくらなければ生まれてきた甲斐がありません。けれども私たちは、日々欲望にふりまわされ、欲望を追求する生活であります。いかに自我欲望をおさえる努力をするかが、とりもなおさず自分を大切にする生き方につながるのでしょう。

 
お釈迦さまに死後の命運についてお尋ねしても、お答えにならなかったそうです。お釈迦様は死後のことよりも、今を充実して生き抜くことが大切だから、人間の自覚とその生き方とを教えられました。
   
 
「命の源である祖霊」をまつり崇めることにおいて、揺れ動く不安定な心を静め、混迷の世を生き抜く活力と自信を自ら得ることができるでしょう。死後においても、尊び敬われる先祖霊となり、仏としてまつられ、子孫や後の世の人々に幸せをもたらせる余韻を残したいものです。

 

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