2003年12月1日
 
   59話  この一日の身命

  此一日の身命は 尊ぶべき身命なり 貴ぶべき形骸なり  道元禅師


命尽きるまで現役

 関西お笑いの最長老コンビであった「夢路いとし・喜味こいし」さんの兄さん、いとしさんが亡くなりました、軽妙な話芸で人々を楽しませてくださいました。

 ある日、喜味こいしさんが「お互いに、老後のことを真剣に考えんならん年になりましたなあ」と、これに答えて、相方の夢路いとしさんが「おかしなこと言なはんなや、老後とは漢字で老いの後と書きますやろ。今、私は、老人の真っ最中、現役老人ですから、老の後のことを考えるのはまだ早い、老人の現役を退いたら、老後のことを考えます」。命尽きるまで現役だとおっしゃいました、命尽きるまで人間の現役とは、さすがにうまい表現です。

 この言葉どおり、いとしさんは命尽きるその時まで現役でした。弟のこいしさんが、兄さんのいとしさんを偲んで、 「浮世はいとし 人情こいし」と半世紀にわたり、漫才一筋できましたが、漫才人生に悔いはありませんと話されました。一瞬の儚い人生ですが毎日がはじめての今日、はじめての私ですから、 いとしこいしさんのように命尽きるまで人間の現役でいたいものです。

泰然自若の根性を養う

 人間はこころの安らぎをもとめる、こころの安らぎがなければ心身が病み、生き続けることができません。現代人は日常的にいろいろなストレスを感じていますから、心に悩みをもつ人が多い。そして悲しいことに、自ら命を絶つ人があまりにも多いことです。 

 経済不況、社会の不安が増す現代を生き抜くために、あなたは何をたよりにしていますか。人生には浮き沈みがある、喜び楽みがあれば、悲しみ失望がある。人の幸福とは困難に出会い克服することだと言う人がいますが、苦悩をも悠然として受けとめ、楽しみと喜びに変えてしまうような、泰然自若の根性を養うことが大切でしょう。

 泰然自若の根性を養うとは、常に自分自身の仏心を呼び覚まし続けることです。他に幸せを探し求めても、空虚なものを追いかけているにすぎないことに気づきたい、自分自身の仏心を呼び覚まそうとする心を発すか否かが、我が人生が楽しいものとなるか、幸不幸の分岐点となるでしょう。
 
呼吸とは吐いて吸うなり

 生きるとは息をすること、呼吸することです、いつも人は無意識に呼吸しています、自分で生きているようであって、生かされているからです。人は欲張りだから、吸い込む、取り込む息の仕方が呼吸だと思っています。けれども意識してゆっくりと吐く呼吸をしますと、呼吸法を変えることによって、心が安らぎ落ち着きます、そして、気力が高まり元気が出ます、向上心と創造力もわいてきます。

 時には坐り、背筋を伸ばし、肩の力を抜いて、ゆっくりとお腹の底から吐き出す呼吸法を試みましょう。呼吸とは吐いて吸うなり、欲深く吸うて吐くのでなく、損を吸って得を吐けばよい。ゆっくりと一呼吸すると、わだかまりもスットとれます。長息は長生きにも通じます、心の霧晴れスカット爽やか、笑顔がもどります。

 人は欲のおもむくままに生きていますから、つまずきます。真っ直ぐに背筋伸ばして、呼吸を整え、心しずめて生き死にの流れに身をおく時、自分の周りも進むべき方向もよく見えてくるものです。

今生において度せずんば、いずれのところにか、この身を度せん 

 お釈迦様は足下の砂の一つかみをもって、人身得ること難しと、そしてさらに砂をまた一つまみして、仏法にあうことはさらにまれなりと、この身、今生において度せずんば、いずれのところにか、この身を度せんと、今、幸せな人生を送らなければ、生まれてきた甲斐がない、仏の御命を生かせと教えられました。姿勢を正して、しっかりと大地に自分の身を整え、息を整え、心を整えよ、良く整えし我が身こそ仏なり、人間なりとお示しになられました。  

 「謂ゆるの道理は日日の生命を等閑にせず、私に費さざらんと行持するなり・・・・ 此一日の身命は 尊ぶべき身命なり、貴ぶべき形骸なり  (道元禅師)」

 仏道を学ぼうとする人の生き方は、何か特別な修行をすることでもなく、毎日毎日の生活を、真に充実して生きることです。日々欲望にふりまわされ、欲望を追求する生活であるが、いかに自我欲望をおさえる努力をするかが、自分を大切に生きるということでしょう。

 2003年も年の瀬となりました、過ぎ去った日を振り返ってみて、この一年が、我が人生にとって悔いナシと、言い切れるでしょうか。 
 お釈迦様は命の尊さと、その大切な命の使い方を教えられました。
 12月8日はお釈迦様の成道(おさとり)の日です、人の生き方、命の使い方を学ぶ日です。

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