第62話    2004年3月1日

                 到彼岸         
         
    よき法(おしえ)を聞き、その法にしたがう人は、
    越えがたき死の境域(さかい)を越えて、彼岸に到らん [法句経86]


 「生を明らめ死を明らむるは仏家一大事の因縁なり、生死の中に仏あれば生死なし、ただ生死即ち涅槃(ねはん)と心得て、生死として厭(いとう)べきもなく、涅槃として欣(ねがう)べきもなし、この時初めて生死を離るる分あり、唯一大事因縁と究盡すべし」(修証義)

 生まれてきたこと、生きること、そして、死とは何か、このことについて誰でも時には思いをめぐらし考えるでしょう。


 生まれてきたこと、そして今、生きている、これは現実だから理解できます。けれども死は未知のもの、命あるものは死滅する、このことは解っているけれど、その体験談を語ってくれる人はいません。

 自分の死については全く理解できないことですから、不安です、死滅していく自分を想像するだけでも悲しい、また人との死別も悲しい、だから死について思いたくもない、忌み嫌うという一語につきるのです。

 死の不安を人はいつも感じているわけではないけれど、人の死や自分が死を予感するような出来事に遭遇したりすると不安がおそってきます、生きることが苦であると思いこんでしまう人もあります。


 生きることと死ぬこととは本来次元のちがうものであり、生から死に移るというものでもない、すなわち生の時は生のみ、滅すれば滅のみです。

 
この事実を素直に受けとればそれでよいのですが、人は生にも死にも執着するけれど、死を遠くに追いやって、生き死にをともに理解しょうとしないから、生と死がますます解らなくなります。

 命は生死するものであり、生死するから命です、生死を一つのものとしてとらまえてみると、生死がよく見えてくる。このことわりを明確に言い当てる言葉が仏教にはあります、それが「無常」という言葉です。無常とは常ならずということですから、世の中のいっさいのものは、一つとして同じ状態、同じ姿を止めない、どれも変化している、これが真実です。
 
 短い時間でそれがはっきりわかるものから、気の遠くなる長い時間で見ないとわからないものまであります。生き物は生老病死します、川はたえず変化しているが、山は木々の四季の色合いのちがいぐらいで大きな変化をみることはない、けれども長い年月では変化しています、このように無常は千差万別ですが、共通することは、生滅するということです、生じたものは必ず滅するということわりです。

 生命は生きるように生まれてきたから、生きようとするさまざまな仕組みがある。一方では死ぬように生まれてきたから、生命体は死滅するようにも仕組まれています。


 新しく生命が生まれるために一方で生命が死滅していくという大原則が自然界の道理です。生物の命を形づくっている細胞の一つから、宇宙の星にいたるまで、生まれるために死滅していくという法則に貫かれている、それが真理であり万物は「無常」であります。

 人は誰でも自慢できることを二つ持っています。それは、人間に生まれてくることができたということです。そしてもう一つは自分の力で生まれてきたのではなく、与えられた命、父母を通して先祖からのぶっつずきの命として生まれてくることができたということです。

 人として自分が、この世に生まれ、今、生きているということは、一切のものは「縁起」(さまざまな因や縁)による、だから自分の命は自分のものであって自分のものではない、これが命でしょう。自分の力で得た命でなく授かったものだから、自分でこの命を無駄にしたり、自ら命を絶つことは道理に反します。

 生死する命は、神さまからいただいたものでもなく、自然のはたらきとして両親のもとに生まれてきたものです。
人として自分が、この世に生まれ、今、生きているのは、この二つの真実、「無常」と「縁起」に基づくのだと仏法は説きます。

 「生死の中に仏あれば生死なしとは」、生死そのものが自然の摂理(真理すなはち仏)ですから、生にも死にもこだわらなくてよい、生死にしたがえばよいということです。

 
生死は真理そのままですから、生死という認識すらしなくてもよいのですが、生死に悩み、不安に思うのは、三毒(貧瞋癡すなはち、むさぼり・いかり・おろかさ)という煩悩を離れることができないからです。

 だから、死を避け遠ざけたくなり、忌み嫌い否定したくなる、これは人情というものです。生死を明きらかにするとは、生死に生まれ、生死に生き、生死に死んでいく、これがすべてであるとわきまえることでしょう。

 「生死として厭うべきもなく、涅槃として欣うべきもなし、この時初めて生死を離るる分あり、唯一大事因縁と究盡すべし」とは、生死を生きる、生死を楽しむ、生死に遊ぶ、この生き方が安楽なりと認識できれば幸せです。過ぎたるは戻らず、未来は予測できず、だから生死に生きるというのは只今を生きるということです、これが仏教徒の生き方です。

 受け難き人身を受けたことを喜び、そして様々な命に支えられ生かされているという事実を、畏敬の念をもって受けとめる謙虚さが、現代人にもとめられる。この謙虚な態度こそが先祖供養の姿勢であり、生き方の基本でしょう。彼岸にこそ生死に思いを致し、わが命の源であるご先祖様に手を合わせましょう。

3月20日春彼岸をむかえて
 アメリカのイラク攻撃から1年、今なおイラク人による自らの国ずくりが遅々として進まず、テロの応酬が止まず、多くの市民の犠牲が続いています。
 阪神大震災の傷が生々しく、復興にむけて全国からの励ましにより、被災地の人々もようやく希望を見いだし始めた頃でした、東京地下鉄サリン事件が起こりました、あれから九年、後遺症に悩む人々の傷は今もなお癒えません、ようやく先日に事件の首謀者についての一審の判決がおりたばかりです。
 アメリカのイラク攻撃も、地下鉄サリン事件も、3月20日彼岸の中日に起きた事件です。聖徳太子が人々に安らぎの時を持ましょうと提唱されて始められたのが、彼岸の週間です、願わくは、人々がやさしさの心を持って、世界が平和でありますように、彼岸に祈りましょう!

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