第67話     2004年8月1日

やさしさの心のメール

 あたかも母が己が独り子を命を賭けても護るように、そのように一切の
生きとし生けるものどもに対しても、無量の慈しみの心を起こすべし。
〈お釈迦様の言葉スッタニパータ〉
 

 ケータイにメールの受信音が鳴る

 20歳過ぎの女性との会話中に何度もメールが来る、そのたびに受信確認してる、思わずボーイフレンドや友達がいっぱいあって幸せですね、と言ってしまった。するとお母さんが何度も私にメールをくれるんですという、娘と母親はおしゃべりする間柄だと思ってましたから、メールでなく直接話さないのですかと聞くと、最近はいつもメールだという。

 わずか数文字の言葉のやりとりでも記録が残るから、電話のようにすぐに応対しなくてもよい、便利だけれど、文字の向こうに親と子の姿はない。「どうしたの元気ないよ」などと、声が聞こえないメールからは相手を気遣うやさしさと思いやりの気持ちはうまれないのでしょうか、小学生に連絡用のケータイを持たせてる親がいるようですが、さらに親子の絆が弱くなっていく。

 この頃、電車やバスを待っている間にもケータイでメールする人の姿をよく見かける、歩きながら、友達とおしゃべりしながら、ケータイでメールしている姿がある、ケータイの声のやりとりが、いつしかメールに変わったようです。学校でも友達同士の会話よりも、メールの方が信頼できるという、佐世保の小学六年生の女子児童による同級生の殺害事件が起こった、その背景にネット上の会話がある。

 最近ネットの会話やケータイのメールのやりとりが増えるにつれて、さまざまな摩擦がおきている、ネット・コミュニケーションは便利である反面、いろいろな問題を引き起こす。
 
 言葉は相手がある時に発せられる

 ケータイも初めは声の電話であった、おしゃべりは人と人との直接の交流で、人類が言葉を持った時から変わることがない。メールは文字の交換で手紙のやりとりと同じであるが、メールは即時的に交換可能であり手紙ともちがう。メールは声の言葉とちがって消え去ることなく残るから、聞くから見るに変わった。

 言葉を発する声の会話は情が伝わるから、相手に変化が生じる、相手の表情も伝わってくる、メールは言葉が伝わっても人の心は伝わりにくい、そして声である言葉は聞き流されるがメールは記録され残る。

 声を発する言葉だけが交わされていたら、やさしさの心が働き佐世保の同級生の殺害事件のような子供同士で殺し合うこともなかったでしょう。メールの言葉が信じられて、人の声である言葉が信じられないのか、奇妙な錯覚が現実になってきている。

 パソコンでは長文のメールも可能ですが、ケータイでは長くても200文字程度ですから、短い文章の中に心を込めて、送り手の姿を合わせ伝えることはかなりむつかしいです。

 メールの伝わらないところがある

 あの世は亡き人、ご先祖さまのおいでになるところです、ご先祖さまにメールを送ることができないが、お魂の存在を信じてるから心は伝わると思ってます。お盆にはご先祖さまのお精霊を迎える、先祖の魂がお精霊としてお帰りになるから、鄭重にお迎えをして懇ろに供養する。

 日本人はお魂を大切にする、言霊として言葉にも、遺品など物にも、魂は漂着すると考えている。けれどもメールに魂は漂着しないようです。お盆にはケータイの電源を切って、命の源であるご先祖さまと、心と声の対話をしましょう。

 命の源である、目には見えないご先祖さまのお精霊を山から海から、迎え火を焚いて、キュウリの馬をつくって早く帰ってくださいとお迎えする。盆棚には、一家中で懇ろにお供え物をして御詠歌をお唱えする、そしてご先祖さまとの一時を過ごして、なすびの牛に乗ってゆっくりお帰りくださいと、送り火焚いて精霊を送る。

 最近、やさしさの心でご先祖を迎えるお盆の慣習も簡略化され、なくなりつつある。人と人との対話は六根すなわち眼耳鼻舌身意をよくはたらかせることでしたが、メールは目のみしかはたらかない、ここに問題の根源がある。やさしさの心を取り戻すために、お盆の行事で魂を揺さぶる会話をご先祖さまとしてみませんか。

 やさしさの心にふれて子供が成長する

 やさしさの心にふれて情がそして感性が豊かになる、なんとすばらしいことだろう。やさしさて何なんだろう、何となくわかっているようで、はっきりと説明できない、でもやさしさの心で行動することはもっと難しいことかも知れません。

 やさしさの心があれば人を許すことができる、人を思いやることができる。人類みんなにやさしさの心があれば、人を殺めることも傷つけることも、テロも戦争も起こらないはずです、有り余る物も捨てられ無駄にすることもないでしょう。

 人は生まれながらに無量の慈しみの心を具えている、情け、あわれみ、慈しみ、すなわち慈悲心です。人には生まれながらに慈悲心が具わっている、慈悲心があるから人は救われる、慈悲心があるから他を救うことができる。幸せになりたいと願う心、幸せにしてあげたいと願う心を 慈心、苦しみや悲しみが無くなって欲しいと願う心、苦を取り除いてあげたいと願う心が悲心です。うれしい時楽しい時ともに喜び、悲しい時辛い時ともに涙するやさしい心が慈悲心です。

 メールではやさしさの心は送れないのでしょうか、メールを交わす双方がやさしさの心を共有することができないのでしょうか。それはメールそのものでなく、メールの発信者、メールの受信者、それぞれのやさしさの心によるのでしょう。やさしさの心とは慈悲心です、慈悲心をメールで発信したいものです。
 
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