第85話    2006年2月1日

    少欲・知足

    多欲の人は多く利を求むるがゆえに、苦悩もまた多し
    少欲の人は求むること無く、欲無ければ、すなわちこの患うれい無し
    もし諸々の苦悩を脱せんと欲すれば、まさに知足を観ずべし
    知足の法は、すなわち是れ富楽安穏の処なり           


 弟子たちよ、わたしの終わりはすでに近い。別離も遠いことではない。しかし、いたずらに悲しんではならない。世は無常であり、生まれて死なないものはない。今わたしの身が朽ちた車のようにこわれるのも、この無常の道理を身をもって示すのである。「遺教経」

 お釈迦さまの最後の言葉が教典として伝えられています。世はみな無常なり、この世のいっさいのもの、すなわち万物は、一時として同じかたちをとどめるものはありません、どんなものでも変わっていく、生あるものは死んでゆく。お釈迦さまはご自分がまもなく死んでいくであろう姿を、そのままに見よと、我が身をもって無常について弟子にとかれたのです。

 この無常ということについて、人々は日々の生活においてあまり気にとめていないでしょう、でも、このことわりが、人が人らしく生きようとするための原点になるはずです。命の儚いこと、命の尊いことに気づくから、やさしさの心が育まれ、真実に生きようとする気持がおのずと生じてくるようになります。命にはかぎりがあることを思うから、より良き人生でありたいと願う、そして、他の人を思いやる気持にもなれるのです。 


 満月の日の2月15日(関西では3月15日)を、お釈迦さま入滅の日とします。
 お釈迦さまの入滅を大般涅槃 だいはつねはん といいます。
お寺ではお釈迦さまの入滅の様子を画いた涅槃図をかかげて涅槃会の追悼報恩の法会をつとめます。
 この涅槃図には、お釈迦さまの十大弟子をはじめ、菩薩さま、さまざまな人たち、そして生きとし生ける生き物たちの嘆き悲しむ姿が沙羅双樹(沙羅双樹の一方は悲しみのあまり白く変じたとも、その時期ではないのに花が咲いたともいわれる)のもとに画かれています。
天からはマーヤーさまが降りてきたともつたえられていますが、お母さまの慈愛や、深い悲しみにうちひしがれた弟子アーナンダや号泣する人々の人間味あふれる姿、そして動物も植物もお釈迦さまの死を悲しむ様子が赤裸々に画かれています。
 満月のもと、お釈迦さまは右脇を下にし、頭を北に顔を西にして横たわっておられます。お釈迦さまの入滅の様子を画いた涅槃図は、死を嘆き悲しむ絵であるけれども、どこか静寂で安らぎに満ちています。


 形あるものは、壊れゆくものである。
みな怠ることなく涅槃に向かって努力せよ 「パーリ涅槃経」

 生まれてきたものは必ず滅するものなり、わかっているけれど、いつも気にしているわけではありません。気にしないばかりか、自分だけはなかなか死なないと思いこんでいるから、五欲の欲するままに、わがまま勝手に生きています。

 人は自分自身の心の中に生じてしまう、貪りの心、怒りの心、愚かな心に負けてしまう、人は欲深く弱いものですから、欲におぼれてしまい、自分を見失ってしまうことがしばしばです。そして自分の小さな欲の心でものごとをとらえようとするから、ものごとの本質が見えないのです。欲がまた新たな欲を生む、この煩悩のために欲の底なし沼にはまりこんでしまうのです、そして苦しみがまた新たな苦しみをつくる。
 耐震構造設計のごまかしの事件にしても、大手
IT関連企業の株の不正操作など、世の人々に幸せをさしあげるべき仕事であるはずのものが、我が身の欲望にのみ走ってしまった、とどのつまり自分たち自身も、苦しみの淵にあって、もがき苦しまなければいけないはめに陥ってしまった。

 
涅槃ねはんとはインドの古い言葉であるニルバーナの音写です、煩悩の炎が吹き消された状態の安らぎ、さとりの境地をいいます。お釈迦さまは最後の説法で、煩悩の炎を消しなさいとおしえられました、悩み苦しみのない生き方をしましょうと、今際の際にさとされました。
 また涅槃とは生命の火が吹き消されたということで、入滅、死去をいいます、人は死ななければ、煩悩の炎が消えて安らぎの境地に入ることができないのでしょうか。


 この世で自らを島とし、自らをたよりとして、他人をたよりとせず、法を島とし、法をよりどころとして、他のものをよりどころとせずにあれ。「パーリ涅槃経」

 「ああ、この世はなんと美しいところであろうか、人生はなんと甘美なものであろうか」
 80歳になられたお釈迦さまは、まもなくご自分の命が尽きるであろう時に、ご自分の気持ちをこのように語られたそうです。今際の際に我が人生をふり返り、こういう感慨を吐露できる生き方ができれば、それはすばらしいことでしょう。

 我が国は高齢化社会に移行していきます、長寿の時代に人々はどのように生きるのか、 とりわけ団塊の世代と呼ばれている人々は、子を産み育て、仕事と社会と関わり、自分を振り向く余裕さえなく、これまで走り続けてきました。そうした団塊の世代の人々も、これからの生き方が、その人にとって、人生の善し悪しを決定ずけることになるかも知れません。

 この世に生まれてきてよかった、さまざまな喜び、悲しみ、人との出会い、みんな味わい深いことであった、生きてきてよかった、自分の命の尽きる時、このように自分の終焉をたたえることができるでしょうか。
 大いなる旅路の果てに、お釈迦さまはクシナガラというところで、いよいよ起きあがれなくなってしまいました。お釈迦さまの最後の旅から入滅に至まで、そして荼毘などについて叙述した教典が涅槃経です。

 お釈迦さまの命がまもなく尽きるであろうと察した弟子達は、みな動揺していました。
不安げな弟子達に向かって、お釈迦さまは、自分の死後のことについて語られたそうです。
「法をよりどころとし、自らをよりどころとせよ(自灯明・法灯明)」
「すべてのものはやがて滅びるものである、汝らは怠らず努めなさい」
このようにさとされたと涅槃経にあります。
 お釈迦さまがすべてであった弟子達はこの言葉を聞いて、この世の真理(法)を求め続けることを怠らず、この世の真理(法)にもとずいた生き方をしていこうと心に決めたのでした。


 
少欲有る者は、すなわち涅槃あり、これを少欲と名ずく
 知足の法は、即ち是れ富楽安穏の処なり 「遺教経」

 「少欲有る者は、すなわち涅槃あり、これを少欲と名ずく」少欲を行ずるものは、心はおのずから安らかである、憂え恐れることもなく、いつも満ち足りています。少欲であれば心は静まって涅槃となっている、これを少欲と名付けると、お釈迦さまは最後の教えとしてこのようにとかれました

 お釈迦さまが最後にお説きになったこの教えを、道元禅師さまも自らの最後の教えとして説かれた「八大人覚」に、「多欲の人は、利を求めることが多いから、おのずから苦悩もまた多い。これに対して少欲の人は、求めることもなく、欲もないからわずらうこともない。いつも満ちたりて苦悩もなく心穏やかである」と、このように少欲を行じることをさとされました。

 財産があり、物があふれて、飽食にふけっても、なを心さみしいのはなぜでしょうか、満たされないのはなぜでしょうか。諸々の苦悩を脱せんと欲すれば、当に知足を観ずべし」「知足の法は、即ち是れ富楽安穏の処なりお釈迦さまは最後の教えとして、悩み苦しみのない生き方は、すべからく足を知ることだともおしえられました。人の生き方の根本のところがこの知足の教えでしょうか。

 道元禅師さまも
「もし、もろもろの苦悩からのがれようとするならば、知足を観ずべし、足を知らない人は、たとい富んでいても心は貧しい、足を知れる人は貧しくても心は富んでいる」「
足を知らない人は、常に五欲にまどわされており、足を知れる人から憐れみを受けるであろう、これを知足と名付ける」と、このように知足を行じることをさとされました。

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