第89話      2006年6月1日
 
           
   破草鞋

    一人の僧が洞山守初禅師に「仏とは何ですか」と尋ねました
    洞山禅師は「麻三斤(まさんぎん)と答えました
    仏とは何ですかと尋ねているのに、
    三斤(1斤は約600cの麻糸だというのですか
    まさしく役に立たない破草鞋(やぶれわらじ)
    それも仏だというのですか
    僧は麻糸三斤に用はないぞと言いました
    麻三斤は僧衣一着分にあたる、
    洞山守初禅師は麻三斤と答えて、
    人は本来、仏であることを語ったのです

       

団塊の世代

 団塊の世代とは、堺屋太一さんが名付け親だそうですが、戦後のベビーブーム時代の人達のことです、昭和22年から24年生まれは「団塊の世代」と呼ばれています、人口構成のダントツに多い年齢層です、この3年間に生まれた人は、800万人強で、最近3年間の出生数が約350万人ですから、「団塊の世代」がいかに多いかということです。

 その団塊の世代の人々が定年をむかえようとしています、肩書きもなくなり一人の人間になるのです。経済至上主義の洗脳から解かれ、企業という村社会に帰属していたところからも放り出され、人間としての自立をしなければならなくなります。自分の見識で自分の人生観で自分の価値観で、新たな歩みをすることになります。
 団塊の世代の人達が55歳を超えて60歳になろうとしています、子育てを終え、リタイヤの時期にある今、この年齢の人々の、これからの生き方に注目が集まっています。

 NPO法人と蕎麦屋、一見なんの関係もないように思えるけれど、この二つが団塊の世代の人々のこれからの生き方を象徴しているのだと言う人がいました。高齢化社会に団塊の世代の人々が社会とどう関わって生きていこうとしているのか、長寿の時代に、これから人生の三分の一をいかに生きぬこうとするのか、ゆっくり、ゆったりの生き方を団塊の世代の人々は模索し始めたのです。

 経済至上主義のもと利益追求に関わってきた団塊の世代の人々が、生きる目標を社会貢献、公共の福祉への寄与に置き換えて、NPO法人をとおして、そこに生きる価値を見いだそうとしているのでしょうか。
 ファーストフードに対抗してスローフードという言葉が生まれたそうですが、それぞれの地域の産品と料理法がスローフードとしても見直されるようになってきた。これは団塊の世代の人々の飽食肥満から健康で長生きへの食生活の見直しにも通じます、蕎麦はこのイメージを象徴しているのかもしれません。

めざすところは社会への貢献です

 長寿を生きることにどんな意義を見出そうとするのか、それにはどういう生き方がよいのか、これまでの経験をもとにして何かを求めたい、なにかにとり組みたいという意欲を団塊の世代の人々は持ち続けています、競争社会を生きぬいてきたという自負の表れでもあります。

 時代のペースメーカーとして、技術と消費をリードしてきた世代だから、今後の生き方に注目が集まる。書籍にも団塊の世代のこれからという内容のものが急に増えてきた、市場でも熟年の夢を商品化しようと旅行業、不動産業にすでに新企画商品が出てきました。しかし受動的な性格よりも能動的な人々の多い世代ですから、自分たちでこれからの楽しみや、生きがいをつくり出そうとしています。

 NPO法人は利益を求めない非営利の事業活動をするための組織であり、そのめざすところは社会への貢献です、もとより企業活動には社会に貢献していこうとする大義名分はあるけれど、やはり利益追求が企業活動の目的です。株の操作や売買によって利益追求をする人々も多くなってきました、企業活動が社会貢献であるということで自由主義経済が成り立ってきた、しかしその利益を社会に還元していくためには企業努力が求められる、それで粉飾をしてまで見せかけを良くしょうとしたり、公序良俗に反する企業活動に走ったりすることも多々あるのです。企業活動をとおして世の中に貢献して、あわせて利益を確保するということはとても難しいことです。

 そこで利益追求に関わってきた人々が、まず目標を社会貢献、公共の福祉への寄与に置き換えて、NPO法人をとおして、そこに生きる価値を見いだそうとしているのです、何をどのようにするのかこれから多彩な新規職種も生まれてくるでしょう、ゆっくり、ゆったりの生き方ができる成熟社会の構造を、団塊の世代が築こうとしているのでしょう。

蕎麦

 蕎麦は興味深い食材です、蕎麦だけで料理店の基本メニューができあがる、ざるそばと、そばがきだけを出す店があってもいいのですが、天ぷらをつけたりしてトッピングして、ちょっとだけ客層を広げたいので料理のメニューを増やしているようです。

 蕎麦粉だけで料理になる、塩も加えずこねて切って湯がいて食べる、そばつゆがなくても塩だけでもおいしい、他の食材と取り合わせしなくとも蕎麦だけでも料理が成り立つ。この調理法を身に付け蕎麦粉の良質なものが手に入れば、だれでも蕎麦屋さんになれるのです、家庭でも作れる。飽食肥満の時代には、低カロリーの蕎麦が好まれるようです、事実、定年退職後の仕事にと蕎麦道場に通う人達も多いといわれています。

 江戸時代中頃に木喰上人という人がいました、21歳で出家して44才の時、「木喰戒」を受けます、55才で、諸国を廻って各地に千体以上の仏像を彫ってまわりました。円空さんが荒々しい彫りの仏像で人間の喜怒哀楽を表したのに対して、木喰さんは柔らかいやさしい彫りの微笑仏を残している。

 「木喰戒」とは肉魚はもちろん、五穀をも食せず、また一切火を通したものを食べない、唯一の食べ物を蕎麦の粉とし、これを水でといて食した、蕎麦粉以外に他のものを口にしなかったと伝えられています。北海道から九州まで各地に遍路を続け、郷里に戻ったときには 82才になっていました。 再び新たな願をかけ、2年後に故郷を後にし、 各地で仏像を彫り、92才で没した、木喰上人はゆっくり、ゆったりの生き方をした典型的な人でしょう。

一人の破草鞋の人間

 破草鞋(やぶれわらじ)とは破草履(やぶれぞうり)のことです、使い物にならない無用のもの、役立たず、利用価値のないものということでしょうが、無用になり、役立たずになって、利用価値がなくなってはじめてものの本質があらわれるということもあるでしょう。破草鞋であっても藁であることには変わりがないから、堆肥にもなる。

 団塊の世代の人々が定年をむかえようとしています、肩書きもなくなり一人の人間になるのです、定年をむかえた人間は破草鞋になって、功も否定され、名も否定されてしまうのです。人は自己をも否定して、空に無にしてはじめて、本来の自己が現れるのでしょう、本来の自己を生かすことができるのでしょう。

 禅の修行においては知識は何の役にもたちません、知識は無用のもの破草鞋です、でも否定された無用の知識は無知の知であり大知です。団塊の世代の人々は自己に執着しなければ、肩書きのない一人の人間で生きられるでしょう、本来の自己を見出して、無欲恬淡(物事に執着せず)、豁達大度(寛容で心広く)に生きていくことができるならば、この世が仏で満ちあふれている幸せな世界であることに気づくのでしょう。

 今まで気づかなかった現前の世界がことごとく麻三斤であり、破草鞋です、そのことごとくが輝きに満ちた真実の姿を現しています、現前の世界が命の輝ける仏で満ちあふれているのです。
 団塊の世代の人々は肩書きもなくなり一人の破草鞋の人間になって、ゆっくり、ゆったりの生き方に無上の幸せを味わうことができるでしょうか。


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