第93話   2006年10月1日
    

                   夢  
  
夢みるのも覚めているのも、もとより一如であり、実相である  
                                 道元禅師


夢とは

 人にとって睡眠とは、脳と身体を休ませて、今日の疲れをとり、明日の栄養となるものですが、睡眠が十分でないと、前日の疲れがとれません。
 朝、目が覚めたときに、「昨晩はぐっすり眠れなかった」と感じるのは、睡眠の質が良くないことが原因のようです。

 人の眠りにはレム睡眠とノンレム睡眠があり、健康な人の眠りには一定のパターンがあるそうです。眠りにつくとまず脳の眠りであるノンレム睡眠が、そして、そのあとに身体の眠りであるレム睡眠へと移っていくそうです。これが約90分の周期で一晩のあいだに3〜5回繰り返されるという。

 深い眠りは徐波睡眠とよばれ、脳が休息するぐっすりとした眠りです。徐波睡眠は脳と身体の両方にとって大切な睡眠で、寝入りばなにしっかり徐波睡眠が現れることが、質のよい睡眠の条件の一つだそうです。

 健康な人の眠りは、寝入りばなに深い眠りである徐波睡眠が多く、目覚めに近づくにつれてレム睡眠が多くなるのが特徴とされています。レム睡眠は、体は眠っているのに、脳は目覚めた状態で、夢を見ることが多いそうです。
 良い夢を見たとか、恐ろしい夢を見たとか、このごろよく夢を見るなどと言いますが、夢とは睡眠中に、現実でない仮想的な体験を体感する知覚現象だと言われています。

邯鄲の夢・胡蝶の夢

 昔、中国の蜀の国に廬生(ろせい)という青年がいました、邯鄲(かんたん)という町に来ました、ちょうど昼時で、お店に入って食事をたのんだのですが、まだ、そのお店では、ご飯が炊かれていなかったので、その間、少し休もうと陶器の枕を借りて寝てしまいました。食事のできる少しの間だけのつもりでしたが、たいそう気持ちがよくなり、盧生は立派な役人になり、出世をして富貴な一生をおくった・・という夢を見てしまいました。
 ふと眼をさますと、廬生はもとの食事をたのんだ邯鄲の店で寝ていたことに気づき、彼が眠る前に店主に頼んでいたご飯もまだ出来上ってもいない、すべてはもとのままであったのです。 栄辱も、貴富も、生死も、何もかも短時間で見た夢で経験した廬生は 「ああ、夢 だったのか!」と言って邯鄲の店を去っていったというお話です。
 この説話から、栄枯盛衰の極めてはかないことを喩えて「邯鄲の夢」という言葉が生まれたそうです。

 また、こういう夢の話しもあります。中国の思想家である荘子(そうし、名は周)がある時、胡蝶(チョウチョ)になった夢を見たそうです。
 夢の中で自分が胡蝶になって楽しく飛びまわっていたから、人間の荘周であることさえ忘れていました。ところが突然目が覚めるとまぎれもなく荘周そのものであった、いったい荘周が胡蝶の夢を見ていたのか、それとも、胡蝶が荘周の夢を見ていたのか、わからなくなってしまったというのです。
 夢ごこちで、この世は夢か現(うつつ)か、いったいどちらがどうなのかわからないことの喩えとして、「荘周夢に胡蝶となる」という話が語り継がれています。

夢路を出で、夢路に至る人生の旅

 徳川三代将軍家光の時代に生きた沢庵禅師は「夢」の一字で一喝して73歳にして逝ったと伝えられています。この沢庵禅師は、辞世の偈である「夢」の一字をもって、千言万語をもってしても、とうてい説きつくせない真理を説いています。

 「百年三万六千日、弥勒・観音是非をみる、是もまた夢、非もまた夢、弥勒もまた夢、観音もまた夢、仏云く、まさに是くの如き観をなすべし」 と添え書きして、沢庵禅師は「夢」の一字を辞世の偈として遷化されたそうです。
 「まさに是くの如き観をなすべし」とは金剛経の 「一切の有為の法は、夢・幻・泡・影の如く、露の如くまた電の如し、応に是くの如き観をなすべし」 という偈からでている言葉だといわれています。

戦乱の世に生きた武将たちも、人生は夢の如しと、辞世の句をよんでいます。
 織田信長  「人間五十年 下天のうちに比ぶれば 夢幻の如くなり
                   一たび生を得て 滅せぬもののあるべきか」
 明智光秀  「逆順無二の門 大道は心源に徹す 
                    五十五年の夢 覚来めて一元に帰す」
 上杉謙信  「四十九年 一睡の夢 一期の栄華 一杯の酒」
 豊臣秀吉  「露とをち露と消えにしわが身かな 浪速のことは夢のまた夢」  

 百年三万六千日を生きたとしても、過ぎてみれば夢の如し、夢のような人生です。人は生前のことは知らない、夢の世界から生まれてきて、物心ついて自分という存在に気づく。人と夢と書いて儚いというが、人生は短くて、あっという間に過ぎ去っていく、そして人はまた夢の彼方に去っていく、夢路を出で、夢路に至るのが人生の旅です。
 そんな儚い一瞬の人生を、居眠りしていては生まれてきた甲斐がない、目覚めよと、沢庵禅師は「夢」の一字で一喝されたのです。

夢みるのも覚めているのも、もとより一如であり、実相なり


 ありあまるほどの財産があっても、心豊かに健康で長生きできるとは限りません。その日暮らしの貧しい生活の中にも、笑いとあたたかさが満ち溢れた幸せがある。金や名誉はやがて消えてなくなってしまいます、栄枯盛衰は邯鄲の夢の如しです。
 人生の3分の1は寝ていますが、起きていても眼が覚めていなければ寝ているのと変わらない。人は煩悩のためにさまざまに迷い苦しみ、不安で心が穏やかでない。夢かうつつか、それさえもわからないような生き方しかできない人も多い、胡蝶の夢の如しです。

 迷い・煩悩・執着が完全に払拭されなければ、この世の真実の姿を観じとることはできません、なぜならば人間の認識は独断や偏見でしかものごとをとらえようとしないからです。人は生きてる限りこの迷いの世界から容易に脱けきれません、それで沢庵禅師は夢見心地でなく、しっかりとこの世の真実の姿を見極めよと説いたのです。

 道元禅師は 「夢みるのも覚めているのも、もとより一如であり、実相である」 
と教えておられます。
 今、生きているこの世も、そして人生も、すべてが無常なるもの、すなわち生滅してとどまることなく移り変わるものだから夢の如しです。そして、それはそのままに、この世の真実の姿・実相そのものです。
 居眠りしているから己の心が乱れ、迷っているのです、眼をしっかりと見開らけば、実は無上の悟りの世界(真実・実相の中)に生きているのだということに、気がつくでしょう。

 父母のご縁のもとに人に生まれてくることができた、悪夢の迷い道にだけは入り込まないようにしたいものです。一度の人生です、儚い命ですから、夢うつつでなく、常に眼を覚まして現前の実相(この世の真実の姿)を観じとり、心安らかで、満ち足りた幸せの日々を生きたいものです
 

 戻る