第99話  2007年4月1日
             天真に任す 
       
       柳緑花紅真面目 
             柳は緑、花は紅、これが本来のありのままの姿です

百花、春に至って、誰がためにか、開く

 母親とその息子さんから話を聞きました。その息子さんは4年前にくも膜下出血のために手術を受けて一命をとりとめられた。 病院に救急入院された時、複数の医者は、手の施しようもないと診断されたそうです。けれども お母さんは、たとえ助からずとも何も治療せずして死なせるのにしのびないと医者に必死の嘆願をされて、頭蓋骨をはずしての長時間にわたる手術が施されたそうです。結果、手術された医者も驚くほどに、幸運にも九死に一生をえられたのです。

 お母さんの執念ともいえる息子を思う気持ちが生還につながったのです。息子を生かしたい母の一念と医者の卓越した治療技術、そして息子さんご本人の生きようとする意欲が命を蘇らせたのでしょう。
 もう少し対応が遅れていれば命はなかったのでは、とか、よいお医者さまに出会えたことがよかったとか、よくある話です。地震などの自然災害のみならず、交通事故の現場においても、よく助かったものだ、運の強いことだ、神仏のご加護があったなどと、命の明暗を分けた現場では、運、不運が語られます。

 ある大会社の社長さんが、トップ人事にあたって幹部社員一人一人を直接面接して、これまでの人生での幸運な体験談を聞き、そのうち最も劇的な体験をした人を抜擢したという話を聞いたことがあります。
 社寺に詣でておみくじをひいて大吉を引き当てると喜び、凶がでると不吉なことが起こらないかと気にしてまた必死に拝む、たかがおみくじと思い過ごされない何かがあるからです。宝くじも当たりくじがよく出る販売店には人気が集まる、人は心の底のどこかで幸運を願うからでしょう。

柳は緑の枝を垂らし、花は紅に咲く

 4月は入学や進級、入社式や転勤、そして異動の時期です。人々は新しい進路に、また新しい環境に、一喜一憂することの多い月です。この4月には「運」という言葉もよく使われるようです。
 運とは天命のめぐりあわせ、めぐってくる吉凶の現象として、運がむいているとか、よいほうに言うことが多い言葉のようですが、運のつきなどと、滅びる時がきた、人力ではどうしょうもないという言い方にも使われます。

 「運は天にあり」と言いますが、すべて人間の運命は、天命によって決定されているのだから、じたばたしても仕方あるまいという教訓です。「運不天賦」うんぷてんぷ・・・人間の運命は天の定めるものである、出たとこ勝負だという意味です。
 ところが「運を待つは死を待つに等し」と言い換えると、自ら努力することなく、ただ幸運の到来するのを待っているのは、死の到来するのを待っているのと同じではないか。運は自らの努力によってのみ、切り開くことができるのだ、という教訓も一方にはあるようです。

 人間の意思にかかわりなく身の上にめぐり来る善悪・吉凶すなわち、人生の諸々の出来事は超人間的偉力によって支配されていることによるめぐりあわせだとして、運とか運命として受けとめる人は多いようです。
 しかし自然界では気象の異常さえも天地自然の当たり前の姿です、柳は新緑の枝を垂らし、花は紅に咲きほこる、幾千年もかわることのない春の景色です。自然界には運、不運などということもなく、価値の優劣もありません。
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落花、流水に随う、流水は無心に落花を送る


 運命などというと、運、不運は前世から定まったものであるかのような運命論になってしまいがちです。運とか運命という言葉は仏教にはありません、「諸法皆是因縁生」とお経にあるように、縁とか縁起という言葉を仏教では使います。
 縁起とは仏教の中心思想で一切のものはもろもろの因(直接的原因)や縁(間接的原因)によって生じるとされています。縁起という言葉が転用されて、幸・不幸の前兆といった意味で、「縁起が悪いとか」「縁起をかつぐ」などと俗語としてよく用いられます。

 仏教では人間の努力による因果形成を建て前としますから、神の力の創造や、宿命的な力を因とする説はとりません。また因果とは原因と結果のことで、結果を生み出すものを因といい、その因により生じたものが果であります。善い行為(善因)には善い結果としての報い(善果)が、悪い行為(悪因)には悪い結果としての報い(悪果)が因果の法則によって生じるのです(因果応報)。

 現代人は、自己の能力、努力はさておいて、運不運でものごとを推し量ってみたり、自己の苦しみや悩みの解決を、自らの内面に向けようとせずに、悩みや苦しみの原因を他や社会に求めようとする傾向があります。しかし世の中は自分の思い通りにものごとは進展しません。

 「落花、流水に随う、流水は無心に落花を送る」百花爛漫の春、花は流れようとして川に落ちたのではなく、川は花が落ちるのを待っていたわけではない、花は咲き終えて散り、川はただ無心に流れているだけです。

春は枝頭にあってすでに十分

 不足不満の思いで生活していても、何ごともおもしろくありません、日常生活でのちょっとした気配りが、その人の人生を大きく変えることになるでしょう。
 気配りの一つが「ありがとうを言えばストレスがなくなる」です。
 何ごとにつけてもありがとうの言葉を発すると、相手も快く受けとめていただけ、人間関係で火花が散ることもなく、おだやかになり、それでストレスが生じないのです。
 次に「相手を褒めて自分も元気になる」です。
 相手の人や他を褒めることによって、けなされるよりも何倍もの心地よさを、相手も自分も感じるものです、それで自分も元気になれるのです。

 念ずれば花開くといいますが、ただ念じているだけでは希望的展開は望めません。ものごとは善い行為(善因)、悪い行為(悪因)の結果として現前に現れるのですから、良き展開を期待するならば善循環の風をおこさなければ念じても花開くこともないでしょう。
 日常生活のちょっとした気配りや善行は善循環を、逆に不足不満の思いで生活したり悪行をかさねると悪循環につながる、この因果の道理をわきまえてこそ、念ずれば花開くのでしょう。

 百花爛漫の時節が到来しました、人々は心躍らせて、幸せの春を求めます。でも幸せを求めてあちらこちらと探しまわっているうちは、心も浮き立っているから、幸せが得られません、幸せはいつも足下にあるのにそれに気づかないのです。
 運・不運に一喜一憂するのは、感傷的な心の狭い了見に過ぎません。広大無辺の大自然のめぐりによって、人は生まれ、生かされているのですから、この因縁を喜び、命輝かせて今を生きぬくことが幸せなのです。

 「天真に任す」天真とは天然の道理のことですから、さまざまなこだわりを捨てて、水が流れるように、空に雲が浮かんでいるように、ただ自然の道理に身を任せることです。
 ともすると現代人は世相の価値観に押し流されて、見せかけのうわべの姿にとらわれてしまい、本当の美しさを見失ったり、あるいは見誤ってしまいがちです。天真すなわち自然の道理を理解しょうとする気構えを持ち続けることがなによりも大切なことでしょう。

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