「鐘の音」   和尚の一口話               2002年9月 
        
       第四十四話  生死は仏の御いのち

  
      峰の色 谷の響きも 皆ながら

             吾が釈迦牟尼の 声と姿と
                             
道元禅師

         峰の色 谷の響き 鳥の声 風の音 一木一草に
           
いたるまで 仏の命を宿し かがやいている


  季節の移り変わりの早さに驚き、また季節の移り変わりに心躍ることがありませんか。日本のように四季の変わり目がはっきりとした気候風土は、地球上では少ないようです。

 また時として、季節のあまりにも早い移り変わりに、自分の人生を重ね合わせて無常なることにため息をつ く、「光陰は矢よりも迅すみやかなり、身命は露よりもも ろし」ふと我にかえり、過去りし日々を思い、将来を思うこともあるでしょう。すばらしい四季のある風土に生活しながら、その美しさに無感動な人が近年多いようです。

 都市生活者は、自然とのふれあいが希薄になりがちですが、社寺や公園の緑にも、四季の移ろいを感じることができます。自然を感じ取るアンテナを具え、チャンネルを合わせて、自然の輝きを受けとめたいものです。


 現代は人間社会の変化の速度が一時代前と比べると加速しているようですから一年の変化が十年に値するようにも思えます。よって変化に取り残されると、この時代を生き抜くことができないのではという錯覚に、多くの人々が陥ってしまいがちです。

 「昨今の社会の情勢は混迷の度をいっそう深め、激動の時代をむかえた」と、青スジをたて、顔を赤らめて、異口同音に現代人は叫び続けています。しかしこれは頭に血がのぼった人間達に見える景色であって、山川草木、万物は静かな生き死にの流れの中にあり、悠々に無常の時を刻んでいます。


 大地には小さな花や昆虫が、生命の営みをみせています、生死を憂えることもないから、生老病死の悩みもない。この大地には金も名誉もありません、悠久の生命の生死の流れがあるのみです。人間だけが心身を悩ますいっさいの欲望、すなはち煩悩により、自分の足下すら見えず、歩むべき方向を見失なっています。

 現代人の多くが日常的にストレスを感じています、人間社会しか見ないのでしょうか、四季の移ろいの美しさに感動する心を失なってしまったのでしょうか。人間社会のしがらみにしか生きる空間を持たない心の悩み多き人々が今日も人間の間を堂々巡りしています。


 精神分析学者エリクソンは「鳥は飛び方を変えられない、動物は走り方を変えられない、けれども人間は生き方を変えることができる、人間だけが命の終末があることを初めから知っているからだ」 だから 「人間は死に向かって成長することが理想の生き方である」と言っています。


 人は生かされているから、ことさらに自分の姿勢や呼吸を意識しないけれど、欲のおもむくままに生きているから、つまずきます、心の安らぎがなければ心身が病みます。日々のわずかな時間でも、ちょっと意識して真っ直ぐに背筋伸ばして呼吸を整え心しずめて、生死の流れに身をおいてみましょう。

 心が安らぎ、自分の内なる仏さんが現れます、生死の眼、生死の耳、生死の心がはたらき、自分の周りも、進むべき方向もよく見えてくるでしょう

 「峰の色 谷の響き 鳥の声 風の音 一木一草にいたるまで仏の命を宿し輝いている」すべて生死の流れの風景です、ことごとくが輝きに満ちあふれありのままに生死の流れの風景を露呈しています。

 生きること、死ぬこと、人とは、幸せとは、環境とは、社会とは、家庭とは、いずれも生死の風景であることにも気づくでしょう。
生きる喜びとは何か、それは生まれてきたこと、生死の流れの中に生きていることです。



      「この生死は即ち仏の御命なり。これをいとい捨てんとすれば、即ち仏の
      御命を失わんとするなり。これにとどまりて、生死に著すれば、これも仏の
      御命を失うなり。 仏のありさまをとどむるなり、いとふことなく、したふこと
      なき、このときはじめて仏のこころにいる。」 『正法眼蔵・生死


             <平成14年9月29日 高祖道元禅師750回大遠忌正当>
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