「鐘の音」   和尚の一口話                 1999年6月1日
 
     第五話    香厳撃竹(きょうげんぎゃくちく)の話 

          真実の声が聞け,真実の姿が見えてくることが,
         最高の喜びであるという自覚をもちたい
       
   また常にそう心掛けたいものです



 昔中国に香厳(きょうげん)という僧がいました。
 ある日,庭の掃除をしていたときのことです、自分の掃いた石ころが、竹にあたって音を発した、その時,道を悟った。
竹の声を聞いて道を悟った
「香厳撃竹の話」として、今に伝わっています。

  人はいつも人間中心に自然をとらまえるから、自然界すべてを人間社会の中に組み入れようとします。人間も自然界の一つの生き物にすぎないのに、地球の隅々まで人間社会に組み入れたかのような錯覚に陥いってしまいます。
 ところが阪神大震災などの自然界の現象によって、しばしば人間は脆くもこの錯覚を打ち砕かれてしまいます。けれども人間中心に自然をとらえようとする姿勢を変えようとしません。

 また人間は物質的欲求が強く、経済合理性ですべてをかたずけようとします。しかしバブル崩壊や金融危機によって、経済合理性が虚像であったことも、身にしみてわかったはずです。

 ロシアの宇宙船で宇宙飛行を体験したジャーナリストの秋山さんは、職業替えして農業を始めた。宇宙から地球を見て、地球に帰りもう一度大地に目線を置き直して生きていこうと決意されたのです。
 

 いずれも異なる話ではあるが、どこかでつながっています。自分の生き方を、自己中心的な人間の価値基準によらずして、真実すなわち宇宙の真理に照らして生きていこうとするならば、間違いのない生き方ができそうです。心身の置きどころこそが大事なことのようです。

 真実の声が聞け、真実の姿が見えてくることが、最高の喜びであるという自覚がなければ、また常にそういう心掛でいなければ、「竹のこえ」など聞こえてきません。
 また、「悟りに始めなく、修行に終わり無し」という。日々が悟りであり修行であると認識していなければ、庭の掃除をして、自分の掃いた石ころが、竹にあたって音を発した、その時、道を悟ることもないでしょう。

  
      聞くままに また心なき 身にしあれば
       おのれなりけり 軒の玉水 
 道元禅師
 
       いつのまにか雨が降り出した、静かに坐っていると,軒端を打つ
       雨だれの声が聞こえる,雨滴の声を己自身と聞くか、無心と聞くか。



 香厳智閑

  南岳懐譲の系統の?山霊?の法をつぎ、香厳寺に住んで禅をひろめた。
  「香厳撃竹」は香厳が大悟したときの話しで、?山霊?のもとで修行していたとき
  師から仏教の究極を一言で述べよと問われたが、答えられなかった。
  ある時、道路を掃いていたら、小石が飛んで竹にあたり音がした、
  これを聞いて悟りを開いた。
  「聞声悟道」(小石が竹にあたる声を聞いて悟りを得る)とは
  体で悟りを得たということで、参学者の手本とされています。
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