2010年 6月  第137話
        命を生ききる
    
夢の中で会った人でも、目が覚めたならば、もはやそれを見ることができない。それと同じく、愛した人でも死んでこの世を去ったならば、
もはや再び見ることができない。            「スタニパータ」

葬式は、要らないのか・・・?

 以前は村落共同体である村社会とか町内会などの地域の互助によって、死者は弔らわれていました。土葬であれば自宅から墓場まで葬列の野辺の送りがありました。ところが、昨今では人生の最後を病院でむかえ、そして病院から移送される先は住み慣れた自宅での葬儀でなく、葬儀会館でというのが多くなりました。かつて地縁血縁によって執り行われてきた「家」の葬儀が、近年は「個」の葬儀として、葬儀業者さんにすべてをゆだねるようになりました。
 
 通夜には、ご近所や特に親しくされていた人がお悔やみに来られるぐらいで、親族のみで棺側で終夜故人を悼み供養するのがならわしでした。ところが近年は通夜の会葬が多いことから、僧侶が通夜に読経することが一般的になりました。
 また、故人と直接関係のない人にまで会葬していただかなくてもよいという考えのもとに、近親者だけで葬儀をあげることが多くなってきたようです。

 "お葬式は要らない"  と主張する人まであらわれてきました。葬式をしても何も残らないから、葬式に多額の金をかけたくないということでしょうか。葬式をしないで遺体を火葬場に運び、荼毘にという「直葬」。会葬者をよばず、親族だけで通夜、葬儀をする「家族葬」。通夜と葬儀を一日ですませる「ワンデーセレモニー」。戒名も僧侶も不要で、近親者だけでおくるという「お別れ式」。近親者のみにて密葬して、後日にホテルなどで「偲ぶ会」を催す等、葬儀の形態が近頃は様変わりしてきたようです。

 それではいったい葬式とは、どんな意味をもつのでしょうか、葬式は不要でしょうか。葬儀は結婚式とちがって時間をかけて準備していくものでないから、あわただしくつとめることになります。それで、突然のことでわからないことが多いことから、葬式について考えておくことも必要なことです。                                     
亡者の冥福を祈り、祖霊となることを願う気持ちは日本人の心   

 葬式は、亡くなった者の弔いごとであるとともに、故人とつながりのある人との別れの儀式でもあります。亡くなられた人の年齢、病気療養されていたのか、突然のことか、事件事故によるものか。また、亡くなられた人が、自分にとってどのような間柄であるのか、親族、仕事上の関係、ご近所づきあい、親しくしていた友達、知人、恩人等、生前の関わりによって、葬儀に向きあう気持ちはちがうでしょう。

 葬儀にあたり、故人の人生をふり返り、その人の生きざまや、生前の功績をたたえ、生前の苦労をねぎらい、受けた恩や温情に感謝し、弔意と謝意を表します。最近では、葬式を告別式として、故人との別れを告げる式だと思っている人があんがい多いようです。今生の最後のお別れで、その死を確認して、会葬することで故人とのつながりにけじめをつける、決別というけじめの機会だと理解されているようです。

 古来より日本人は、葬儀を先祖霊となる出発点であると意味づけ、村落共同体の儀式として死者を弔らい、魂をしずめて冥土におくり、祖霊となることを願いました。やがて仏教がつたわると、僧侶が戒名を授けて仏(ホトケ)として冥土におくるようになりました。葬儀を終えても、黄泉の国に至る道すがらが安泰であり、冥土で幸せであるようにと願い、家族も縁者も49日間は中陰供養の善行につとめます。

 祖霊となって子孫を加護してくださることを願う、そういう気持ちが日本人の心の奥深くにはあります。しかし葬儀が先祖祀りとかけ離れたものになってきたから、葬式は故人との別れを告げる式だと思う人が多くなりました。祖霊となって子孫を加護していただくという願いが弱くなれば、49日間の中陰供養もしだいに軽んじられていくでしょう。
 先祖とは自分自身の命の源だから、先祖を祀ることによって肉親の絆を大切に思い、命の尊さを自覚します。したがって、祖霊を尊崇しなくなれば、それは自分という命を生ききる意味をも見失うことになり、心の悩みに苦しむ人が増え、精神的荒廃はますます深刻なものになるでしょう。
                                              
 戒名は、要らないのか?・・・・戒名は善き業を身につけて新しい私になる証

 戒名とは仏さまのおしえにより、本当の自己(仏)に目覚めて、良い人生を歩もうとする仏門帰依者が授かる名です。人の本来の生き方を教えた戒を授かり(授戒)、戒名をいただきます。したがって、戒名は没後授与でなく、仏門帰依者として、生きている人が授かるものです。生前に法縁にめぐりあえなかった人には、葬式の中で戒名を授かり、仏(ホトケ)として冥土におもむきます。ところが最近、戒名は要りませんという人があらわれてきました。

 僧侶は葬儀にあたって、死出の旅におもむく前に授戒し、戒名を授けて仏門帰依者として導きます。平等を説く仏教にあっては、戒名に差はなく、あくまでも男女の区別以外は仏道修証の深浅を基本とします。戒名料というものはありませんが、寺の経済は布施(寄付)によりなりたっていますから、戒名授与の恩金(寄付金)をいただくことがあります。戒名の恩金は、伽藍整備や布教教化の資金としてつかわれています。

 江戸時代になると幕府が定めた寺請制度によって、檀家である証として戒名を授かりました。明治になって寺請制度が廃止されても、寺院と檀家の関係は変わらなかったけれど、都市への人の移動や、核家族化につれて、徐々に寺檀関係も崩れていきました。
 明治になって寺領をなくしたり、戦後の農地改革で田畑を失った寺院は経済的に困窮しました。そこで年忌法要や葬式の布施収入および戒名の恩金に寺の経済基盤をおくようになったことから、「葬式仏教」と揶揄(やゆ)されるようになりました。布施(財施)をいただき、仏の教え(法施)を授けさせていただきますが、最近では先祖祭祀が継続できない家が増えてきて、檀家数が減少して寺院経営が困難になり、住職がいない寺が20%を超えるようになってきました。

 人は死んでもその人の業績や生きざまは消えませんが、地位や財産はあの世まで持って行けません。その人の生きざま、すなわち行為を「業(ごう)」といいますが、業は死んでからもその人から離れることはありません。それで善き業を身につける生き方が望まれます。たとえ悪行をなしても懺悔して善行にはげめばよいのです。
 限りある命を生ききるために、そして死して後もなお尊敬される人こそ子孫を加護できるよき祖霊となることから、生前に、人の本来の生き方である戒を授かり、戒名をいただき、善き業を身につけるべく、日常生活を仏道修行として生きたいものです。
命を生ききる生きざまこそが、悔いを残さない死にざまです      

 大切な人が突然に亡くなると、なんの心の準備もないことから、ただ悲しむばかりで葬式をあげることすら辛く苦しいことです。ところが長寿で幸せな一生であったと思える人の葬儀においては、故人は十分に生ききったのだから、長く会えなかった縁者を故人がここに呼び集めてくださったのだということで、悲しみの葬儀の場にも笑いと涙が交錯します。

 もはや葬儀が村落共同体の儀式としての弔でなくなったことから、葬儀は肉親によってとりおこなわれます。それで、よく耳にすることは 「故人が生前に自分の葬式は簡素にするようにと言っておりましたから、その意志を尊重したい」 という意向です。
 一人の人間が生きてきたということは、さまざまな人との関係を結んできたということです、葬儀においてその関係を再確認することになります。葬式は故人の弔いごとであるとともに、故人と関係してきた人との社交的な儀式でもあります。したがって故人の生きざまをたたえるとともに、故人の生前の親交を遮断するものであってはならないはずです。

 葬式は人間の位から、先祖霊の位に移行していく分岐点であり、新たな先祖霊となる出発式です。人間の位を生きぬいて49日間にわたる黄泉路を経て祖霊となります。また49日間は大切な人を亡くした悲嘆から、遺族が日常の落ち着きをとりもどせる期間ですから、短縮しないことです。

 人は心の絆を大切にします、それで、あたたかな心のかよう葬儀であってほしいと願う。通夜での僧侶の一口の語りが、心のこもった故人を偲ぶものであれば、悲しみのなかにも心の絆をあらためて感じます。たくさんの弔電の読み上げよりも、「ありがとう」というお孫さんの短いお別れの言葉のほうが心に響きます。故人の好んだ曲が流れたり、故人の映像が映されたり、好きな花が飾られていれば、故人の心が伝わります。葬儀は急なことですが、故人にふさわしい演出や気配りがなされてもよいはずです。
 自己の命を生ききる、人生に悔いを残さない生きざまこそが、望ましい死にざまということでしょう。そして故人のお人柄がしのばれ、しかも故人とご縁のあった方々との心の絆を大切にした、仏教徒らしい葬儀であってほしいものです。よいお葬式であったと、そんな思いが残るものであれば、葬式も無用でないはずです。

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