2010年 9月  第140話
      おまかせの命
    
この生死はすなはち仏の御いのちなり、これをいとひすてんとすれば、
すなはち仏の御いのちをうしなはんとするなり。 「正法眼蔵・生死」

悲しみの中のやすらぎ

 奥様を亡くされたある男性の話です。奥さんは12年もの長きにわたり、入退院を繰り返されて亡くなりました。車庫には真新しい車があります。奥さんを乗せるために買われたそうです。病院の送り迎えだけでなく、機嫌良く体調よく天気よしという日には、奥様をあちらこちらへと乗せて行こうということで、奥様が楽に乗車できるタイプのものにされたそうです。そして病気が完治することはないだろうが、この先いつまでも生き続けて欲しいという願望から、車の名義を奥様の名で登録されたそうですが、持ち主のいなくなった車がひっそりと車庫に止まっています。

 ご主人は今あらためて奥様と過ごされた四十余年を思い出しておられます。振り返ってみれば一瞬の短き日々であったでしょうか、若き日のこと、子育てのことも忘却の彼方にあり、最近の孫との日々のことが重なってしまい、断片の記憶でしか甦ってこないという。思い出されるのはやはり奥様がご病気になってからのことでしょうか、入退院を繰り返しているうちに、いつしか12年の歳月が経過してしまったというのが、ご感想のようです。


 ご葬儀の後、中陰の四十九日の間、ご家族は毎日、奥様が生前おいでになった通りに、共に生活をされました、ありし日の日常と変わらない生活をつとめてされたのです。三度の食事、お茶タイムをはじめ、生活の有様を奥様がいますがごとくにされました。

 けれども現実は、白木の位牌がまつられた祭壇があり、もの言わぬ遺影が微笑んでいるばかりです。香と灯明、花を手向けて、お経を読み、西国三十三霊場のご詠歌を唱えることを一日も欠かすことなく、孫にいたるまでご家族みんなでつとめられました。7日毎に子も孫も兄弟も、甥も姪も全員揃って中陰のつとめをされました、そして49日が過ぎました。


上を向いて歩こう、涙がこぼれないように

 中陰かざりの明かりが消えて、お悔やみに訪れてくる人もなくなると、寂しさがこみ上げてきます。平日の昼間、娘夫婦は仕事に、孫さんは学校に行かれるので、無職であるご主人が一人残ることになります。奥様の介護から解放されたというものの、気丈夫であっても、悲嘆落胆からの立ち直りはつらいものです。49日の納骨以降、ご主人は毎日墓参りをされました。墓参のための外出が、気分転換になったようです。

 49日の中陰が過ぎて百ケ日までの間が、悲しさや寂しさがより深くなるものです。この間、いっぱい涙することによって、亡き人も成仏し、家族もすくわれます。妻に先立たれたご主人は百ケ日まで、毎日欠かさず墓参されました。亡き奥様が今も人生のパートナーとして、常に寄り添っている、そう信じておられるようです。

 親子も夫婦も情愛の絆が強いから、別れの悲しみは深い。でも、しょせん人は一人ぼっちです、死別の悲しみは身にしみるけれど、その悲しみをのりこえて生きていかねばならない。百ケ日は卒哭忌とも言いますが、涙する日々に区切りをつけて、それぞれが自分自身に叱咤激励し、「上を向いて歩こう、涙がこぼれないように」と歩み始める日です。

 お墓とお仏壇があることによって、大切な人を亡くしても、亡き人の霊と共に生きていける。お墓参りに行けば、いつでも亡き人にあえる、お仏壇にまつられた亡き人と、日々共に生活ができる。悲しみをこえて、49日、百ケ日を経て、年回法事を重ねて、やがて亡き人の霊は先祖霊となり、子々孫々を見守っていくことになります。亡き人の霊と共に生きる、いつも共生きの強い絆で結ばれている、見守りあっていると信じることで、幸せな気持ちでいられるでしょう。


死は不条理なもの、その不条理を受容する

 自分の身近な人が死ぬと、なかなかその死を受け入れることができません。あまりにも突然の死であったり、最愛の人であればその死は受け入れ難いことです。死は不条理なものです、なぜ、その人が死ななければならないのか、とても受け入れ難く、納得できないから、人は泣くしかありません。泣くことによって、何度も涙し泣くことを繰り返しているうちに、その不条理を受け入れることができるようになります。

 不条理な死に方であればあるほど悲しみは深く、死の原因を自己や他者に向けて責めたてたり、過去を悔やんだりします。不運なことだと嘆き悲しみ愚痴ばかりがでてしまい、不安や恐怖心から心の落ち着きをなかなか取り戻せないものです。そんな時、だれかのいたわりの言葉が、気持ちを解きほぐし、心を和らげてくれるでしょう。

 長い年月にわたる療養のはてに亡くなれば、近親者にはそれなりの心の準備ができているけれど、突然に体調不良を感じてあっけなく死んでしまった場合は、その死を受け入れる心構えができていません。まして事故や事件による死であれば、その死を受け入れることができないばかりか、どう対処したらよいのか、家族は茫然自失してしまいます。

 時間の経過とともに、家族はその死を受け入れ、死者の平安を祈ることで、しだいにおちつきを取り戻していきます。死者の生きざまをふりかえる余裕はないけれど、亡き人に、ありがとう、と、感謝することで死の恐怖を転換することができるでしょう。しかし悲しんでばかりいられません、どのようなかたちで死者を弔えば、死者も生者も心穏やかになれるだろうかという思いをもって、お葬式の準備に取りかかることになります。


命のおちつきどころ

 現代人は、近親者の死に直面すると死者のおくり方に戸惑います。一昔前までは村落や地域組織体が葬儀を執行してくれましたが、近年は親族によって葬儀がなされることから、さまざまな戸惑いや疑問が起きてきます。そこでNHKが葬儀は人生の通過儀礼であり、現代人にふさわしい葬儀のかたちが、家族葬だと言わんばかりのテレビ番組を、8月に二度も報道していました。
 


 いうまでもなく、日本人の宗教的風土は祖霊崇拝がもとになっていますから、葬儀を単なる人生の通過儀礼ですまされるでしょうか。葬儀は人という地位から、祖霊という次の地位を獲得することを保障する儀礼です。すなわち葬儀は人という地位での別れを告げる通過儀礼であるとともに、日本人の宗教的特性である、祖霊信仰の入り口、中陰から年回法事へとつながっていく祖霊まつりの始まりでもあります。NHKのテレビ番組によれば日本人の宗教的風土である祖霊信仰にもとずく葬儀礼がまったく抜け落ちてしまいます。そして人間的煩悩を解脱した仏を、安楽浄土に導く僧侶の姿もないようです。

 仏教の葬儀は迷いの人間を、さとりの仏に導き、安楽浄土へおくることを基本にします。煩悩を積み重ねてきたおろかな自分に気づき(懺悔)、人間的煩悩をよりどころとして生きてきた自己から、宇宙的真理(仏法)におまかせして生きる自己への転換(受戒)がまず前提になります。凡夫である自分を仏に転換することで、この世からあの世へと、ぶっつづきで生きる仏になる。葬儀とは、人間的煩悩を解脱した今生の仏の弔いであり、家族や子孫を見守ることができるあの世の仏、すなわち祖霊の仏となる出発式でもあります。

 生まれてきたことも、死んでいくことも、命とは自分のご都合次第でどうにでもなるというものではありません。命とは宇宙的真理(仏法)のもとに、あたえられたもの、さずかったものです、それで、仏の命といいます。人は仏の命を生きて、仏の命に帰っていきます。
 人生とはおまかせの命を生きるということでしょう。おまかせの世界から生まれて、おまかせの世界に生きて、おまかせの世界に帰って行く。この世であれ、あの世であれ、おまかせの世界が命のおちつきどころであると認識できればよいのですが。

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