2011年12月1日   第155話
         光明(こうみょう)       

仏道をならふというは自己をならふなり
自己をならふというは自己をわするるなり
自己をわするるといふは、万法に証せらるるなり
万法に証せらるるといふは、自己の心身、
および他己の心身をして脱落せしむるなり
             道元禅師(正法眼蔵・現成公案)
     
   

仏道をならふというは自己をならふなり

 ストレス社会に生きる現代人には、だれにでも悩み苦しみがあります、悩み苦しみのない人などたぶんいないでしょう。悩みや苦しみには、悩み苦しみをもたらしている、さまざまな原因があるはずです。原因が自分でなく他にある、それで自分は悩み苦しまなければならないのだと主張する人がいます。また、世の中がこのようだから、私も悩んでしまう、などと、世の中のせいにする人もいます。しかし、なるほどそうかもしれませんが、悩み苦しんでいるのは、ほかならぬ自分自身です。

 悩み苦しみの原因と思われるものが人間関係であったり、夫婦のこと、仕事のこと、病気のこと、近隣とのこと、経済的なこと、などさまざまですが、いずれでも、他に原因をもとめる限り、自分自身の悩み苦しみを解消することはできないでしょう。また新たな悩み苦しみが生じてくると、さらに解消はむつかしくなるから、真の解決策は他に求めず、自分のこととして解消すべきです。

 これは悩み苦しみである、これは悩み苦しみの源である、これは悩み苦しみの無い状態である、これは悩み苦しみが無くなる状態に至る道である。まず悩み苦しみの原因をはっきりさせて、次にどうすれば悩み苦しみから脱却できるのか、その道筋を立てる。こうして自分の問題として受けとめ、自分を変えていくことで、悩み苦しみは解消できる。
 「おのれこそ おのれのよるべ おのれをおきてだれによるべき よくととのえられし おのれこそ まことえがたき よるべをぞ得ん(ダンマパダ)」このようにお釈迦様は教えられた。

 なぜ悩み苦しむようになったのだろうか、それはいつ頃からなのか、悩み苦しみの根源をはっきりさせましょう。自分が悩み苦しむのですから、自分自身で悩み苦しみからのがれる努力をしない限り、なかなかのがれらず、かえって悩み苦しみの度が深くなるでしょう。あくまでも自分の問題として受けとめて、自分が変わらなければ、悩み苦しみは解消しない。でも、その原因によっては自分では解決できないものもあるでしょう。

自己をならふというは自己をわするるなり

 植物も動物も生きとし生けるものはみな、命が輝いているのは一瞬のことで、やがて精彩を失い、衰弱して動物であれば死ぬ、植物であれば枯れてしまう。自分はすっかり精彩を無くしてしまった、こんなはずではなかったのに、もうそんな歳になったのか、病のせいだろうか、などと人は嘆きます。生老病死は生きものの自然な姿であるのに、健康でいつまでも若くありたい、歳はとりたくない、死にたくないという願望があるから、思い通りにいかない現実に嘆き悲しむのです。

 人と人との関係においては、たとえ親子であろうと、夫婦であろうと、自分の思うように人は応じてくれない。好きなお互いどうしでも気に入らなくなると、愛する気持ちが憎しみに変わる。人生のパートナーにめぐり会えたと喜んでも、やがて冷めると別れがおとずれる。自分でない他は家族でも他人であり、自分の思い通りになりません。しょせん人は生まれながらに独りぼっちであると、基本認識をしておくことが大切です。

 人はモノやお金に頼ろうとするから、お金がある時は安心して、無くなると心細くなる。裕福なお育ちの人は、お金の値打ちがわからないのか、どこかの製紙会社の会長さんのように、博打にのめり込み、何億円ものお金を浪費してしまう人もいます。思いがけない大金が手に入ると、その時は満たされた気持ちになり、大判ふるまいをして心地よく感じたり、無くなってしまうことを恐れたり、誰かにとられないかと心配する。貧乏で金策に苦労していた時の方が良かったと思うかもしれません。


 悩んでも、嘆いてみても、生老病死は人の自然な姿です。そして、人は生まれつき独りぼっちであるが他の人との関係なくしては生きられません。ところが肉親であっても、親しい友人であっても、自分の思い通りにいかないから、人間関係で悩み苦しみます。
 人はモノやお金に頼ろうとしますが、頼るほどに欲のために悩み苦しみが増してくる。欲望の炎は生きているかぎり消えることはないけれど、こだわらない、とらわれない ものごとに執着しない、少欲知足、そんな心で生きていけば、悩み苦しみとも上手につきあうことができそうです。

自己をわするるといふは、万法に証せらるるなり

 苦しんで、そこから抜け出すところに喜びがある、だから苦は楽のもとです。楽しいことばかりにうかれていると、とんでもないところに落とし穴がある、楽は苦のもとです。苦の背は楽、楽の背は苦、苦楽は一つのものです。苦があるから楽がある、楽があるから苦がある、苦楽がともにあるからこの世はおもしろい。同じことは、喜びがあるところに悲しみがあり、悲しみがあるところに喜びがある、人生は悲喜こもごもです。

 有るといって喜び、無いといって悲しむ、足りているといって満足し、足りないといって不平をいう。分かちあえば余りあることも、自分だけでというと足りなくなる。欲望のために悩みながら生きているのが人間でしょうか。生きている限り欲は消えないから、悩み苦しみは尽きず、悩み苦しみからのがれられない。けれども、その悩み苦しみが何であるかを理解することで、悩み苦しみを小さくすることができるでしょう。

 人間の妄想が悩み苦しみの根源ですから、なにごともありのままに受け取ることが肝心です。悩み苦しみからのがれるには、悩み苦しみを受け入れることです。絶望すれば、絶望を受け入れる、そうすると絶望の底があるはずです、絶望の底に至らなければ絶望そのものがわからない。曖昧な気持ちで絶望からのがれたいと思えば思うほど絶望の底なし沼にはまりこんでしまう。絶望の淵に至って、その絶望をそのまま受け入れることが、絶望からのがれる方法です。必ず絶望の闇の中に光はさしこんでいるはずです。闇と光を一つのものと受けとめることで、闇も明るくなるでしょう。

 「心身を挙して色を見取し、心身を挙して声を聴取するに、したしく会取すれども、鏡にかげを宿すがごとくにあらず、水と月とのごとくにあらず、一方を証するときは、一方はくらし。」 と道元禅師は教えられた。
 ものを見取のは、自分の心身全体で、とりわけ眼で、ものを聞き取るのは耳ですが、私たちは常になにごとにつけても自分流に見たり聞いたりしてしまいます。そのままにうつっている鏡の影さえ自分流に見ている、水にうつる月を見るのも、自然のままに見ていない。わがまま勝手な見方、聞き方をしている私たちは、ありのままに、一つのものとして見取り、聞き取れていない、それが私たち人間の妄想というものです。無我にして見たり聞いたりすれば、何ごともありのままの真実が現れていることに気づくはずです。


万法に証せらるるといふは、自己の心身、および他己の心身をして脱落せしむるなり

 一方に日が当たっていると、片一方は暗し、すなはち光の反対側は陰であり、陰の反対側は光です。一方は光、一方は陰、それぞれ別々であるけれど、それは一つのものです。されど光というときにはそれは光であって陰ではない、陰であるときは光とはいわない。けれども、光がなければ陰はないのですから、光と陰は一つのものです。ところが日の当たっている方を好むが、一方の陰は好まないといえば、明と暗は一つのものと受け取れなくなる。だが、好むと好まざるとにかかわらず、生れたものは必ず死ぬ、生と死は自ずから一つのものです。

 悩み苦しみも、喜び楽しみも、死んでしまえば無くなるから、生きているものの妄想にすぎない。自分の心身全体で、とりわけ自分の眼で見る、自分の耳で聞くというはたらきと、見ている、聞いている対象は、そもそも一つのものですが、ありのままに見取り、聞き取りしなければ妄想となる。同じことですが、無我にして自己のはからいをすてて心身全体で行じる修行によって、自分自身にありのままの仏性があらわになってくる。したがって修行が悟りそのものであり、迷いと悟りは一つのものです。迷いのときは悟りでない、迷いを悟りといわないように、悟を迷いといわない。けれども、光と陰、明と暗が一つのものであるように、迷いと悟りも一つのものです。


 自己を先にたてて万法の真実を明らかにしようとするのが迷いであり、万法の側から自己を照らし出すのが悟りです。仏道を学ぶということは、自己を学ぶことであり、心身を脱落せしめるとは、無我にして自己のはからいをすてることです。自己をすてることで、ありのままの真実であるさとりが現れる。それを万法に証せらるるという。万法に証せらるるとは、悟らされるということです。自己のはからいをすてなければ、悩み苦しみも払拭されず、万法に証せらるることもない。道元禅師はこのように教えられた。

 お釈迦様は6年もの長きにわたる難行苦行のはてに、悩み苦しみの絶望の底に至られた。絶望をそのままに受け入れて、菩提樹下で坐禅をされました。やがて夜の闇が明けんとする時に、明星の輝きをご覧になった。闇と光が一つとなった12月8日の黎明に、天と地、有情と無情、お釈迦さまご自身と一切のもの、ことごとくが光明の輝きを放っていることを悟られた、これを悟りの完成という。その悟りはサンスクリット語の音写で、阿耨多羅三藐三菩提(あのくたらさんみゃくさんぼだい)、無上正等覚と訳されています。この上なき絶対的な悟りということです。お釈迦さまのこの悟りが2500年の時を経て伝えられてきた、これを自分自身の上に実現することが仏法の目的です。

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