2012年10月1日 第165話
            菩提心を発す

  この発菩提心、多くは南閻浮の人身に発心すべきなり、
 今是の如くの因縁あり、願生此娑婆国土し来たれり、
 見釈迦牟尼仏を喜ばざらんや。
 静かに憶うべし、正法世に流布せざらん時は、
 身命を正法の為に抛捨せんことを願うとも値うべからず、
 正法に逢う今日の吾等を願うべし。
      【修証義


苦悩に直面するからこそ、人生の意義や価値を知ることが
できる

 

 お釈迦さまの時代である2500年前のインドの伝説によれば、人間の住む世界は四州、すなはち四大陸からなっているとされていたようです。世界の中心には須弥山(しゅみせん)すなわちヒマラヤの峰々があり、この山の四方にある人間の住む大陸を人四州と言ったそうです。

 須弥山とはヒマラヤを念頭においたもので、その南にある南閻浮州(なんえんぶしゅう)はインドをさします。そして北にある国を北倶廬州(ほくろしゅう)といった。北倶廬州はだれもが長寿で経済も豊かで、古代インドの人々のあこがれの地として想像されていたようです。 
 それにくらべて南閻浮州は、貧しくて悩み苦しむ人が多いから、お釈迦さまの救済を必要とした。そのために、この地域には菩提心を発して仏教信仰に入る者が多かったそうです。

 南閻浮州では、悩み苦しみの多いこの世界を娑婆(しゃば)世界といいました。娑婆とはこの世に生きていくのに悩み苦しみが多くて、その苦悩に耐え忍ばなければならないところという意味で、娑婆のことを忍土といいました。

 だれしも、悩み苦しみが多くて、その苦悩に耐え忍ばなければならない世界に生まれるより、すごしやすい世界に生まれてきたほうがよいと思いがちです。ところが苦しみに耐えねばならない世界に生まれてきて、苦悩に直面するからこそ、人生の意義や価値を知ることができたのです。お釈迦さまはこのように教えられました。


解し難き真理を見よ、無智なる人々はここに迷っている


 悩み苦しみの多いこの娑婆世界に生まれてきたからこそ、ほんとうの幸せを味わい知ることができる。ところが人々は悩み苦しみをきらうから、悩み苦しみから逃れたいと思う。悩み苦しみのない生き方ができればそれは理想ですが、はたして悩み苦しみなく生きられるでしょうか。

 娑婆世界に生きるものは、悩み苦しみから逃れられないのです。悩み苦しみとはなんでしょうか、どうして悩み苦しみが生じるのでしょうか。悩み苦しみなく生きられないのであれば覚悟を決めて、悩み苦しみながらどう生きるかを考えればよいということでしょうか。

 お釈迦様の言葉に近いとされている、スッタニパータという教典にこういう教えがあります。
「他の人々が安楽であると称するものを、諸々の聖者は苦しみであると言う。他の人々が苦しみであると称するものを、諸々の聖者は安楽であると知る。解し難き真理を見よ。無智なる人々はここに迷っている。」
 
 さまざまな悩み苦しみを感じるのは、今生きているからです。さまざまな悩み苦しみを生み出しているのは、自分自身かもしれません。心を鍛え、自分を変えていくと、悩み苦しみから自由になれるかもしれません。


悩み苦しみがあるからこそ、人生は楽しいのでしょう


 もう10年以上も前のことですが、7月になると夜明けが早くなる。4時頃にはもう明るいから人々は動き始める。その時刻になると悩み相談の電話のベルが鳴る。ほぼ同時刻にかかってくるから、まるで目覚まし時計のようなものでした。

 電話の主であるその女性は朝がた、外が明るくなってくると気持ちが落ち着かなくなり、身体が震えてくるという。今日一日が始まると思うと、身体が震える。それで仕事に行けなくて、そのうち外出もできなくなり、部屋に閉じこもっている毎日だということでした。

 本人が言うのには、醜貌
恐怖といって、自分の顔が醜く見えて人前に出られなくなったという。二度目の顔の整形手術の後にそういう気持ちになったそうです。仕事に行けなくなったのもそのせいだと言う。整形手術をしたことを悔やみ、 自分の顔が醜くなったと思い悩んでいるのです。

 悩みのない人などいないでしょう、だれにでも悩みの一つや二つはあるはずです。「世の中とはなるようにしかならぬものなり」と、悩み苦しみをそのまま受け入れて、こだわらなければ、悩み苦しみは消滅していきます。ことさらに自分自身や過去にこだわらなければ、悩み苦しむこともないはずです。

 苦悩に直面するからこそ、人生の意義や価値を知ることができるのでしょう。悩み苦しみがあるからこそ、人生は楽しいのでしょう。


菩提心をおこすというは仏に目覚め、利他に生きるということでしょう


 「人の生をうくるはかたくやがて死すべきものの今、生命あるはありがたし、正法を耳にするはかたく、諸仏の世に出るもありがたし」と法句経にあります。人身得ることかたし、すなわち人の生を受けるは難し、この世に生まれてきたことはなによりもすばらしいことです。そして正法にあうことはさらにまれなりと、お釈迦さまは教えられた。
 
 正法が世の中に流布していない時には正法にあうことはできません。ところが幸いにも正法が正しく伝えられて、現にその正法にあうことができるのです。そこで今日の私たちは身命を投げ捨ててでも、この正法を獲得することを願うべきです。この世の真理を求め続けることに楽しみを見出すならば、生きている究極の喜びを感じることができるでしょう。

 いずれにしても、自分が変わらなければ前途は開けない、過去を引きずって、過去に執着すれば、今が無くなる。未来はすぐに今になり、今はすぐに過去になるから、過去にこだわると未来が見えません。

 菩提心をおこすというは、人間の理想の姿である仏に目覚めた生き方をしていこうということです。そして、菩提心をおこすというは「己れ未だ渡らざる前に、一切衆生を渡さんと発願しいとなむなり」己が幸せになろうとするならば、他を幸せにしなければ、己は幸になれないということです。菩提心をおこすというは仏に目覚め、利他に生きるということです。
 
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