2013年1月1日 第168話             
                福聚海無量(ふくじゅかいむりょう)  
       
       生も一時のくらいなり、死も一時のくらいなり。
       たとえば冬と春とのごとし。冬の春となるとおもわず、
       春の夏となるといわぬなり。   【正法眼蔵現成公案】

希望の光


 昨年の12月13日、この一年の世相を表す「今年の漢字」に、「金」が選ばれました。京都に本部がある日本漢字能力協会が毎年、年末になると今年一年の世相を漢字一字で表すと、どの字がふさわしいかと人々に応募してもらい、最も多かったものを今年の漢字として清水寺の貫主が揮毫されます。清水寺の森清範貫主は「金」という字を書かれました。

 ロンドンオリンピックで活躍した日本選手の金メダルや、山中伸弥京都大学教授のノーベル賞の受賞が混迷の世情を照らす希望の光として「金」という字に表れたのでしょう。そして暗い世相に一筋の光明を見出したいという願いの字でもあるのでしょう。

 この「金」の字を「キン」と読むか「カネ」と読むか、人々の気持ちは複雑です。経済が活況になり生活が豊かになって欲しいという「カネ」の願いであり、昨年5月21日に金環食が日本で見られましたが、神々しい光明の光に照らされて心安らぐ日々であって欲しいという「キン」の願いでもあるのでしょう。

 昨年の暮れには衆議院選挙もありましたが、自分の一票が「キン」なのか「カネ」なのか、いずれにしても、国民の気持ちとしては「金」の輝きをもった一票であったはずです。物も、心も豊かさが感じられて、そして世界が平和であることの願いがこめられた一票だったのでしょう。昨年の世相を表す字が「金」でしたが、今年はどういう一年になるのでしょうか。
執着心を捨てる

 スポーツでは期待した結果が出なければ敗北でしかない。それはそうだけれど、そこに自己のふり返りがあって、なぜ負けたのか、どうすれば勝てるのか、なぜ期待通りの結果が出せないのか、反省や研究、改善、修練というものがあって、次にそれがよい結果を生むことになる。

 iPS細胞の発見につながったのは、想定外のことに注目したからだと山中伸弥教授はいわれました。研究では予想した結果がでなければ、それは正しいものでないと認識されて捨てられる。ところが、その通りの結果でなく想定した以外の結果が出たことに着目して、そこに真実が隠されていると認識されたから歴史的発見が生まれたのでしょう。

 日々配達されてくる新聞を読んで、すべて処分せずに残していたら、新聞はたまるばかりで、家の中が古新聞でいっぱいになってしまいます。古新聞で何かを包む、載っている記事を残しておいて知識として参考にするなど、そういうことで古新聞を役立たせる以外は処分するでしょう。人の思いも古新聞と同じことで、すんだ過去に執着せずに捨てることです。

 出てしまった結果に執着するより、想定外に着目したり、思い切った変革の策をとることで活路が開けることがある。困難な見通しを悲観するより一歩を踏み出せば、暗闇の隘路を抜け出て希望の光を見いだせることがある。過去にこだわるという執着心を捨てること、そして何ごとにも柔軟に対応し、何ごとも受け入れる許容の幅をどんどん広げていくべきでしょう。
時の流れは止まらない

 時の流れが止まらないように、すべてのものは同じ姿を止めていない。自分という身体を構成している50~60兆個の細胞は、絶え間なく死んだり生まれたりしています。すなわち昨日の私、今日の私も、明日の私も、みんな異なる私です。今、一瞬にも、私自身は変わりつづけているのに、いつも同じ私で変わらないと思い込んでいるのは妄想です。

 私たちは、今、という時に生きています。けれども、それは一瞬のことで、そう思った時にはすでに過去です。まさに生きている今とは、瞬きの刹那にすぎない。明日のことだと思っていることが、もうその時になれば今です。未来はすぐに今になり、そして過去になってしまいます。

 ノーベル生理学賞を受賞された山中伸弥教授が、授賞式から一夜明けた朝、ストックホルムで記者会見をされた。「ノーベル賞の受賞は、もう過去のことです。今日は科学者として仕切り直しの朝だと感じている」と、「iPS細胞を創薬に役立てるという応用に向けて、これまで以上に力を入れていきたい」と抱負を語られました。そして「研究はマラソンとよく似ている。今回は、栄養補給のような意味があった」と話されました。山中伸弥教授の研究に終わりはありません。

 無常迅速で時はどんどん流れていきます。ところが人は今がよければと、のんびりと貴重な時の流れを浪費していないでしょうか。過去にこだわることなく、いつも未来志向で今を生きる。今を生きることが過去を生きることであり未来を生きることです。この一瞬の命の輝きに心をときめかせ、今、生きていることに喜びを感じたい。
善循環の生き方

 あの時こうすればよかった、ああすればよかったのにと、何ごとも悔やむことばかりで、過去から離れられずに、過去を引きずっておられる人がとても多いようです。
 身について離れなくなってしまうほどの恐怖、苦痛、屈辱、苦悩というものは、生きている限り大なり小なり尽きることなく遭遇するものです。だから、いつまでも怨みや憎しみ、悲嘆、絶望するのでなく、そのことごとくを払拭しなければ、悩みや苦しみから抜け出せない。

 とかく人は過ぎ去ったことを捨てきれずに引きずってしまいます。ところが過去に執着すれば今が今でなく、今も過去になってしまう。今が過去がになれば、未来を見つめることなく、過去に埋没してしまう。いつまでも今が過去のままであれば、未来に向かって一歩も踏み出せない。過去を引きずって、悪循環から抜け出せなければ、明るい希望の光を見いだせなくなってしまいます。

 「生も一時のくらいなり、死も一時のくらいなり。たとえば冬と春とのごとし。冬の春となるとおもわず、春の夏となるといわぬなり。」と道元禅師は諭された。
 冬が春になるのではなく、春が夏になるのでもない。今とは、過去でもなく未来でもない、今は、今のみで、過去が今になったのではない、今が未来になるのでもない。生は生のみ、死は死のみで、生きているのは、一瞬の今です。

 観音経に「慈眼視衆生、福聚海無量」とあります。福聚とは善い結果をもたらす善行がいっぱい集積しており、広大であるから海にたとえて福聚海という。観世音菩薩が衆生済度する力は、善行に生きるものには無量無限です。過ぎ去った過去に執着して悪循環を繰り返さず、未来に向かって、新たな善き行いを積み重ねていく善循環で、今を生きることです。
 お釈迦さまは「よきことをなすに、たのしみをもつべし、善根をつめば、幸いなればなり」と教えられた。今、善行に生きることが、そのまま善循環して、幸せな日々となる。
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