2013年4月1日 第171話             
                道
    仏道は必ず行によって証入すべきこと   
                   【道元禅師・学道用心集】       
日本の伝統文化は精神修養

 スポーツの教育現場で体罰やいじめが今、社会問題になっています。学校では実態が調査され指導者の姿勢や意識が問われたり、体罰やいじめがなぜ起こるのか、どうすれば改善し、いじめを無くすることができるのかが課題になっています。

 オリンピックに出場する女子柔道選手が強化指導方法に疑問を持ち、日本オリンピック委員会に訴えたことから指導現場の実体があからさまになりました。日本の伝統的なスポーツは、それぞれの組織体によって伝統が保持されてきました。それらの組織体質が構造的に旧態依然とした閉鎖社会であることから、さまざまな問題が生じています。

 日本ではスポーツのみならず、芸能や芸術、学問の世界でも、上下関係やしきたり、組織構造の面において、それぞれ独特な体質を持っているようです。生け花、茶は伝統的な家元制度により、絵画や彫刻などの芸術界でも、また俳諧など文化芸術の分野においても、伝統の保持がはかられる反面で、それぞれの組織体の中にいじめや体罰を生み出す体質を否定できません。

 伝統的なスポーツ、文化芸能、学問の分野では派閥、人脈、金脈がまかり通って有能な人材の育成や能力や技術の向上が妨げられることもあるようです。またいずれもが道という概念で把握されることから、それぞれの道で修練して人格の向上をめざすという、日本独特の精神修養という面を色濃く持っていることも、特徴なのでしょう。
日本人はどの分野でも、道という概念をもつ

 日本人はどの分野でも、伝統を受け継ぎ、技術や能力の向上をはかることと、人格的向上をめざすことを一体のものとしてとらえ評価するむきがあります。また囲碁将棋においては勝負で評価されるから、勝たなければ意味がないが、勝負にのぞむ精神状態も注目される。剣道でも弓道でも、身を守る術であることから、生き死にかかわることとして技の鍛錬とともに、精神の向上をめざすことがもとめられてきました。

 どの分野でも、道という概念をもってとらえようとします。柔道は柔の道といいますが、相撲でも新たに大関や横綱になった力士が、「今後いっそう大関や横綱の名を汚さぬように相撲道に励みます」などと口上を述べる。歌舞伎や能、舞踊などの伝統芸能や、華道や茶道、いずれも道として、その奥義を究めようとします。

 世の東西を問わず人の生きざまや、生涯を道であらわすことが多い。歌や詩にもうたわれるが、とりわけ日本人は人の生き方を道であらわすことが好きです。また人生を旅にたとえて、自分の生きざまという道を日々歩みます。そして、行く先を思ったり、足元を見定めたり、過ぎ去りし足跡をふりかえったりします。

 柔道、剣道、弓道など武道では心身技ともに習熟し、いっそうの人格の向上をめざすべしとします。相撲も相撲道として心・技・体を整えることをもとめる。茶道,華道、芸能においても同じであろう。それぞれの道を究めるとは修練することであり、仏道修行に通じるものがあります。
道とは人生そのもので、生きてる限りこれで終わりということがない

 学問は真理の追究であるとともに、それが世の中で役立つものでなければならない。技術も製品として買われて役立つことで評価を得る。スポーツ、文化芸能も世の人々に感動と生きる喜びをあたえるから、評価を受ける。一人の力は微力であっても、世の中に必要とされ、役立つことに意味があります。

 自分だからできることを通して、生き甲斐を感じ、感動し、やる気と根気を奮い立たせて、満足と挫折、希望と失望、喜びと悲痛をくり返しながらも工夫と挑戦を重ねていかねばならない。向上心を持って努力すること、そして感性を高めて工夫することは道の基本であり、忍耐と勇気がそれを支えます。

 道とは人生そのもので、死ぬまでこれで終わりということがないから、絶えず新しいものを求めて工夫し改善しそして挑戦しなければならない。それは「ものずくり日本」の不屈の精神そのものです。ところが技術大国日本がどこかおかしくなってきた。技術こそ宝だけれど、ものが売れなければ技術があっても宝の持ち腐れです。技術がうまく善循環して、さらなる智慧と技を高めて「ものずくり日本」の本領を発揮してほしいものです。

 学問も芸術もスポーツも、技術の研究開発も、道のめざすところは同じであり、その道を通して最高の人格に到達することです。したがって、いずれも命の尽きる際までそのことは続けられるべきです。長年続けてきた人はさらに奥義を究めようと腕に磨きをかけ、いっそうの向上をめざし、新たに始める人は、それなりの覚悟を持ってかからなければ中途半端なものしか得られないでしょう。そして最も大切なことは、最高の人格に到達することを導く有能な指導者を育てることでしょう。
道は必ず行によって証入すべきこと

 一昔前は55歳を定年として子を産み育てるや寿命が尽きたのですが、今は子育てを終えてさらに30年生きることになったから、この30年の生き方がとても大切になってきました。急速度でおとずれた超高齢社会での生き方に戸惑っている人が多いようですが、それは先輩達が人生50年であったから超高齢社会を生きるお手本がないからです。

 これでよいということは何ごとにおいてもないので、長寿の人生を死ぬまでどのように生ききるかということです。超高齢社会では人生50年の時代と異なるから、中高年は生き方を変えなければいけません。人生そのものが道だから、死ぬまでこれで終わりということがないのです。絶えず新しいものを求めて挑戦し、工夫し改善し修練を重ねていくことが大切です。

 「仏道は必ず行によって証入すべきこと」と道元禅師は学道用心集で説いています。それは行ずることがそのまま最高の人格に到達すること、すなはち仏と成ることです。仏道とは修行であり、行のめざすところは真理の体得です。関西弁で言うと「ほんまもん」の体得です。「ほんまもん」すなはち普遍的な真理(仏法)を自分自身の上に実現させること、普遍的真理に自己を同じくすることにほかならないのです。

 人が成熟するとは、最高の人格に到達することであり、仏道では悟りであり、仏となることです。あるいは仏とならずとも、それぞれの分野で菩薩として世のため人のためにつくせる人になることです。
 学問やさまざまな研究分野でも、スポーツや、芸能や芸術においても、めざすところは、いずれも最高の人格に到達すること、自分のみならず他にも幸せをあたえることであり、普遍的真理の探求に通じることです。

      243ページ
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