2013年11月1日 第178話             


今生

 
    
当に知るべし、今生の我が身二つ無し、三つ無し
                              
 [修証義]


心の病は人間の持病


 誰でも一度や二度は立ち上がれないほどの挫折感を経験したことがあるでしょう。たとえば、希望をもって、あることに関わったり、何かに没頭して取り組んでいたけれど、まったく評価されないとか、それが継続できずに断念せざるをえなくなるとか、そういことになると自信を失って、すっかり失望してしまい、何をする気も起こらなくなってしまうでしょう。

 また人間関係での悩みや仕事などのストレスが続いたり、大好きな人が自分の前から去ってしまったり、最愛の家族を事故や病気で亡くしてしまったとか、思いがけないことが起こると、そんな時には何もする気が起こらないばかりか、全身の気が抜けて力が入らなくなって、立ってられない、座っていても体を支えてもらわないと自分の体なのに自分でどうすることもできない、そういうことは起こりうることです。

 立ち上がれないほどの無力感が全身にまわれば、奈落の底に沈み込んでいくような気持ちになります。そんなお方には、しっかりしてください、気を強く持ってください、などという言葉をかけても、なんら支えにならない。ただ辛いでしょう、苦しいでしょうと声をかけるだけでなにもしてあげられません。

 無気力とか、精神の落ち込みが生じるのは、人間という生き物の持つ宿命でしょう。心の病は人間の持病みたいなものです。精神的に病むと、心と体は一つのものですから、心の病は体をも衰弱させてしまいます。そのうち時が解決してくれるかもしれませんが、自滅してしまうほどの深刻な心の病であれば、専門医にかかって処方してもらって回復をはからねばならないでしょう。

過ぎし日を回想すれば

 死んでしまえば楽になる、この苦しみから逃れられるであろうから、思い切って命を捨ててしまおうかと、何度も思いながらも、思いとどまった人もあるでしょう。また、堪え忍んでおれば、新しい希望が生まれてくるかもしれないから、もう一度やり直そうと、自分に言い聞かせてきた人もあるでしょう。

 もしもその時に自分の命を捨ててしまっていたら、今の自分はないのです。そして、あの時の苦しさからよくぞ踏ん張ってきたものだと、自分の過去をふり返り、今、命あることを喜ぶこともできないのです。

 深まりゆく秋の一時、人はふと立ち止まって我が身を振りかえることがあるでしょう。あの時あの苦しみをよくぞ乗り越えてこれたものだ、あの辛さによくぞ堪え忍ぶことができた、悩みにうちひしがれて苦悩のどん底に落ち込んでしまうところであったが、何とか歩んでこられた、などと回想することがあるでしょう。

 今から思えば、あの時のあの苦しみの本当の原因はなんだったのでしょう。あの苦しみの正体は何であったのだろうか、その原因は自分の中にあったのか、あるいは、自分の受けとめ方がまちがっていたのか、未熟な自分がそうさせたのか、今になれば、冷静に思いめぐらすことができるのに、あの頃はその余裕さえなかったのです。

絶望と挫折にこそ、希望の光がある

 書家の金田泰子さんは42歳で翔子さんを出産された。その子がダウン症だと診察され、その子の将来のことを思うと、深い悲しみに沈んで行かれた。そして子供といっそう死んでしまおうかと、何度も思われたそうです。でも娘の翔子さんの愛らしい目とかわいいしぐさを見ていると、育っていくわが子に希望を感じるようになり、死ぬことを思いとどまられた。

 5歳の時から筆を持たせた。成長されるにつけて翔子さんには書家としての希なる才能があることに気づかれた。自分をよく見せようという気持ちは微塵もなく、人々にただ喜んでもらえることを楽しみとされ、純粋にこころの思うままに揮毫される娘さんの姿に、この子を生み育ててきてよかったと思うようになっていったそうです。

 NHK大我ドラマの「平清盛」の題字によって、書家翔子の名は広く人々に知られるようになった。今年の9月28日に開催された2013東京スポーツ大会の開会式で、揮毫された「夢」の字に感動した観客は翔子さんに限りない拍手をおくった。

 絶望の淵にとどまることができたから、奈落にあっても、そこで一筋の希望の光を見出すことができたのです。そしてその希望をふくらますことによって、親も子も幸せを感じることができるようになった。   絶望し挫折しても、希望の光はあるのだと信じて生きてきてよかったと、金田泰子さんは何度もそう思われたそうです。

今生とは、過去にこだわらない生き方

 何をしてよいのか分からない、自分がどこへ行こうとしているのか、何を目標として進めばよいのか、前も後ろもわからない、自分を見失ってしまったという経験をされた人もあるでしょう。生きているのが嫌になって、いっそう死んでしまえば楽になるだろうと、そういう衝動に駆られることもあるでしょう。

 そして、人は過ぎ去ったことにこだわり、過去にあったことがいつも頭をよぎって、過去を悔やんだり、過去にこだわったりするものです。過去にこだわりすぎると、今が過去になってしまい、今がなくなります。未来はやがて今になるから、未来もなくなってしまいます。

 だれでも人生の刹那、歩みを止めて自らを顧みることがあります。石原裕次郎さんの歌に「わが人生に悔いなし」というのがあります。「鏡に映るわが顔に、グラスをあげて乾杯を、たった一つの星をたよりに、はるばる遠くへ来たもんだ、長かろうと、短かろうと、わが人生に悔いはない」 過去にこだわらなければ、だれでも自分の人生をふり返った時、よかったと思えるはずです。

 挫折こそ希望の第一歩です、無力感にうちひしがれている時は、エネルギーの蓄電の時期にあるのだと思えばよいのでしょう。何ごとにつけても自由自在で、ことさらにこだわりをもたなければ、挫折しても立ち上がれる、無力感から抜け出せるでしょう。
 「当に知るべし、今生の我が身二つ無し、三つ無し」、と「修証義」にありますが、今生すなはち、この世に人間として生まれてくることができたのです。そして今生とは、過去にこだわらない生き方をすることです。いつでも、「わが人生に悔いなし」という生き方をしたいものです。

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