2014年9月1日 第188話             


人間


      ただ、生死すなはち涅槃、とこころえて、
      生死としていとふべきもなく、
      涅槃としてねがふべきもなし。
      このとき、はじめて生死をはなるる分あり。
                             
                            正法眼蔵 生死


      

何のために生まれてきて、何のために生きているのか

 「私って、何のために生まれてきたのでしょうか。私って、いったい何のために生きているのでしょうか。それがわからなくなりました。」
 つらく悲しいことが続きますと、だれでも、ふと、そんな疑問を自分自身に問いかけるでしょう。

 そして苦しみから逃れるために、死んでしまいたいと思うことがあるかもしれません。ところが死がどういうものか、だれにもわからないから、死にたいしても恐怖を感じてしまいます。他人の死を認識できても、自分で死を体験できない。死を体験する時には認識力も消滅しています。

 この世に存在するどの生き物も、自己の遺伝子を多く残すために生まれてきた。生き物たちは生き死に疑問を持つことなく、命を受け継ぎ、子孫を残して命を伝え、そして死んでいきます。生き死に疑問を持つ人間も生物の一つだから、同じことでしょう。

 今、生きているものも、いずれ死んでいきます。けれど、死の体験をして生きている人はいませんから、頭では理解できても死がどういうものかがわかりません。だから、「何のために生まれてきたのか、何のために生きているのか」と自問自答するけれど、結局わからないのです。

人間、すなはち人の命とは

 人間、すなはち人の命とは、人間の体を作っている元素は全部で29種類で、水素原子が半分以上(60.3%)を占め、次いで酸素分子が25%、炭素分子が10.5%、窒素分子が2.4%と、この4種類の元素で98.9%を占める。

 そして、人体の化学成分比では、水分60%、たんぱく質18%、脂肪18%、鉱物質3.5%、炭水化物0.5%です。つまり水分が全体の60%を占め、組織はわずか40%にすぎません。

 人間の体は、たった一個の受精卵の細胞から始まって、人として生まれ成長して、50兆個~60兆個の細胞より人体は成り立っている。そして一呼吸の間に、一千個の細胞が新しく生まれて、一千個の古い細胞が死んでいく。常に細胞は生まれたり死んだり、新陳代謝をしていますが、はたして人はいつも新しい自分を実感しているでしょうか。

 人間、すなはち人の命、人体とはこのようなものですが、どうして人間は自ら死にたいと思ったりするのでしょうか。他の生き物は自死しないのに、なぜ人間だけが自死するのでしょうか。
 「何のために生まれてきたのか、何のために生きているのか」この問の答えは得られないかもしれません。でも、それを一生の問いとして生きていかねばならないのです。

人間とは「世の中」

  人間という言葉を広辞苑で見ると、「世の中」、とその意味が書かれています。
 道元禅師は「世の中は何にたとえん水鳥の嘴ふる露にやどる月影」、と詠まれた。人の命も、実在する万物一切も、瞬時たりとも同一のままでありえない。この真実の姿(実相)を、お釈迦様は諸行無常であるといわれた。

 「人間五十年、下天のうちを比らぶれば、夢幻の如くなり、一度生を受け、滅せぬもののあるべきか」 織田信長はこれを辞世の歌とした。そして「是非もなし」の言葉を残して本能寺の炎と化したのです。
 人の命も、見えるもの聞こえるもの、実在しているもの、いずれも生あるものは滅ありで、本来は空虚なものです。この真実の姿(実相)を、お釈迦様は諸法無我といわれた。

 植物は枯れる、動物は死ぬ、表し方は異なるけれど、生まれてきたものは必ず死にます。死は消滅を意味するから、どんな生き物も死から逃れようとします。けれども「世の中」とは個々の生き物の生死を超えた大きな食物連鎖の世界であり、生き死は自然な姿です。

 「世の中」とは、瞬時たりとも同一のままでありえないこと、いかなる存在も不変でなく、本来は空虚なものです。ところが人間は煩悩によって認識するから、生き死を自然な姿として受容できないようです。
 煩悩の炎が吹き消されたとしたら、「何のために生まれてきたのか、何のために生きているのか」という疑問も消滅するでしょう。煩悩の炎が吹き消され、真実の姿(実相)が露わになった境地を、お釈迦様は涅槃寂静といわれた。

キーワードは「世の中」

 「世の中」とは生死を超えた生かしあいの世界です。だから、この世に生まれてきたすべての生き物は、生かしあうために生まれてきた。生きるとは、生かしあうことで、人も例外でない。人はだれでもたった一人です、けれども一人では生きていけない。他とともに生きるから人は生きていける。

 生かしあいのために自分も「世の中」に必要とされている。それで自分が他に必要とされるに値する人であるかどうかが問われます。したがって自分しかできないこと、そういう能力を身につけるべきです。「世の中」が自分を必要としている。そのために自分に何ができるのか、そこが大切なところでしょう。

 人間すなはち「世の中」は瞬時たりとも同一のままでありえず、いかなる存在も不変でないから始めがあり終わりがある。したがって生きているのは「今」です。
 実在しているすべてのものは本来は空虚なものだから、命も自分のものであって自分のものでない。自分の命も授かった命であり、「世の中」に必要だから生かされている命です。

 人間という意味は「世の中」です。だから世の中に必要とされる自分であるべきです。そのために向上心を鼓舞して自己の人格を高める努力を日々怠らないことです。
 人間は「何のために生まれてきたのか、何のために生きているのか」その疑問を解くキーワードは「世の中」でしょう。

戻る