2014年12月1日 第191話             
煩悩即菩提
 
  行の招く所は証なり、自家の宝蔵外より来たらず。
  証の使うところは行なり。心地の蹤跡豈に回転すべけんや。
                    道元禅師・学道用心集
            

年の瀬

 もう今年も12月となり、一年が過ぎようとしています。時の過ぎゆくのがなんと早いことかと感じさせられる。年の瀬をむかえて、今年一年を振りかえります。今年一年、自分はどのように過ごしてきたのか、こんなこと、あんなこと、今年一年を振りかえるのも、年の瀬です。

 平素は自分のことを振りかえる余裕すらないかもしれません。子育てや仕事のこと、さまざまなことに追いまくられ、ただその日その日を生きているという人も多いでしょう。振りかえる余裕すらなく、立ち止まることもなく、もくもくと日々を過ごしていることが幸せであるのかもしれません。

 でも、辛く苦しいこと悲しいことが続きますと、「何のために生まれてきたのか、何のために生きているのか」、ふと、こんな疑問を自分自身に問いかけることがあります。でも自分に問いかけてもなかなかその答えは得られません。

 時は刻々と過ぎて、木々の葉も散りすっかり冬景色になりました。今年も年の瀬、一年が終わろうとするこの時、人は時の過ぎゆくこと、季節の移ろいをしみじみと感じて、世のことごとくが常に変わり続けていることを実感します。実在する万物一切が瞬時たりとも同でなく変わり続けている。この真実の姿(実相)を、お釈迦様は諸行無常といわれた。

生滅

 この一年の出来事として、自分にとって大切な人、親しき人がこの世から去っていったという人もあるでしょう。さまざまな思いがめぐり、悲しみをこらえたり、寂しさを感じたりします。また、死別のみならず人との生き別れもこの一年にはあったでしょう。

 庭の木も、この春は生きよいよく枝葉も伸びて生長していたのに、夏の終わり頃から生気をなくして、とうとう枯れてしまった。また、かわいがっていた猫や犬が死んでしまったとか、そういうこともあったでしょう。植物は枯れる、動物は死ぬという。表し方は異なるけれど、この世に生を受けたものは必ず滅していく、このことは頭ではよく理解できているはずですが、そして生滅は世のならいといえ、やはり悲しいことです。

 天変地異により犠牲になられた人も今年は多かった。これまでに経験したことのない豪雨のために土砂災害が発生して、各地で多くの人が亡くなられた。天変地異は大自然のなせること、と、言ってしまえばそれまでですが、人間の生活が自然に影響して、それが地球温暖化をもたらしていることも承知の事実です。また御嶽山は突然の噴火でした、頂上付近にいた多くの登山者が噴煙の中で亡くなられた。自然災害が多発したのも今年の出来事でした。

 人の命も、見えるもの聞こえるもの、この世に実在しているいかなるものは、さまざまなことがらが関係しあったからこそ、この世に生まれてきました。だが生まれる前はその実体はなく、本来は空虚なものです。そして生まれたものは必ず滅する。空虚から縁により実体のあるものに生まれて、また空虚なものに帰って行きます。この真実の姿(実相)を、お釈迦様は諸法無我といわれた。

 
往く道は精進にして、忍びて終わり悔いなし

 国民的な人気俳優であった高倉健さんがこの世を去った。日本の映画史に輝かしい足跡を残され、人々に慕われた人です。高倉健さんは映画の撮影を通して心のふれあいを大切にされた。だから、その映画を見る人にとっても、登場人物を演じる俳優さんの心が伝わり、そこに感動があった。

 高倉健さんは「優しさの心」こそ、大切であると言っておられた。やさしさの心があれば、人と人の関係も、国と国、人と自然、人類と地球環境、どの関係においても、善きつながりが保たれるといわれた。「優しさの心」それは、口数少ない高倉健さんのつぶやきである。経済原理や政治力学が優しさを失わせることを、声なき声として示唆されたのでしょう。

 高倉健さんは、若い俳優さんの頃は義理と人情の任侠もの映画が多かったけれど、熟年になられてからは、「なぜこの世に生まれてきたのか、何のために生きているのか」という、人間の本質とか生き方の根本を問いかける作品にとりくまれたようです。

 比叡山の大阿闍梨・酒井雄哉師は、「往く道は精進にして、忍びて終わり悔いなし」という言葉を高倉健さんに贈られたそうです。高倉健さんは映画の一本道を歩まれ「往く道は精進にして、忍びて終わり悔いなし」を自らの末期の言葉とされました。

日々精進、人の一生は修行です

 お釈迦様はこの世の真実の姿(実相)を、諸行無常であり、諸法無我であるといわれたが、人間は煩悩によって認識するから、あらゆることに妄想してしまいます。煩悩の炎が吹き消されたとしたら、「何のために生まれてきたのか、何のために生きているのか」という疑問も消滅する。だから、それを妨げている煩悩の炎を滅除して、早く解脱の道を求むべしといわれました。煩悩の炎が吹き消され、真実の姿(実相)が露わになった境地を、お釈迦様は涅槃寂静といわれた。

 高倉健さんは映画という一本道を歩まれ、心静かに安楽の境地である涅槃に入られた。「往く道は精進にして、忍びて終わり悔いなし」の言葉は映画道の修行者・高倉健さんが、まさに涅槃に入る、その心境を語られたものでしょう。

 お釈迦様は諸々の苦悶からのがれようとされて、さまざまな苦行を経験されました。しかし煩悩の束縛から自己を解き放つことができなかった。煩悩の炎を滅するには大地に足を組み、姿勢を正し、息を整え、心意識の運転をやめ、念想観の測量をやめて、あらゆる執着を放下する、すなはち坐禅により道をもとむべきことを自覚されたのです。
 お釈迦様は菩提樹のもとで禅定に入られた。静慮こそ悟りなり、時に12月8日の明けの明星の輝きととともに、この世の真実(実相)を悟られた。お釈迦様が明けの明星そのものであり、明けの明星がお釈迦様であった。のみならず天地万物が明けの明星とともに輝いていました。

 煩悩の炎を滅除すれば真実・悟りの仏となるから、煩悩即菩提という。人の一生は真実に即した生き方をしようとする修行であるべきであり、日々が煩悩の炎を滅除する精進の積み重ねです。「 証(さとり)に始めなく、修(修行)に終わりなし」、 人の一生は、日常が証(さとり)であり修(修行)です。「往く道は精進にして、忍びて終わり悔いなし」と締めくくることができればよいのでしょう。
 静かに坐り、姿勢を正し、息を整え、心意識の運転をやめ、念想観の測量をやめて、あらゆる執着を放下する。 時には忙中閑ありがよろしいようです。
 

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