2015年9月1日 第200話             
忍辱行(にんにくぎょう)
 
      こころは(しず)まり 忍ぶことにつよく
      ちから健くはげむもの かかる勇者こそ 
      この上もなき安穏なる さとりに到らん  法句経
            

猛暑

 2007年以降より1日の最高気温が35度以上の日を猛暑日というそうです。最高気温が30度を超える日を真夏日、そして35度を超える日が猛暑日です。今年の日本列島は広く高気圧に覆われ、各地で猛暑日を記録しました。

 京都もこの夏はことのほか暑い日が続き、真夏日が64日で、そのうち猛暑日がなんと21日もあったというから、いかに京都のこの夏が暑かったかということです。京都では37,6度を記録した日もあり、11日連続の猛暑日もありました。猛暑に耐える我慢の日々であったというのがこの夏の感想でしょう。

 熱中症とは暑い環境で生じる健康障害ですが、水分や塩分を適度に補給していても、暑い夏には熱中症になる人が多いようです。とりわけ体温をうまく調節できない乳幼児や高齢者が起こしやすいといわれています。でもエアコンの普及によって室温が保たれるから熱中症を防ぐ効果が大きいようです。

 日本人が世界で最も長寿となったその背景には冷蔵庫が普及して、食生活での塩分の低下が大きいといわれていますが、近年の暑い夏をしのぐことができているのはエアコンの普及でしょう。エアコンの効いた室内では猛暑に我慢しなくとも、快適な生活ができるようになりました。

我慢

 この夏は猛暑に我慢の日々でした。「どんなに暑くても我慢しよう」、とか「苦しいことや、痛いのをぐっと我慢した」などと、日常会話にしばしば出てくるこの「我慢」という言葉は、耐える、辛抱するの意味ですが、もとは仏教語です。

 仏教語で我慢という言葉は、煩悩の一つで、強い自我意識から起こる慢心のこととされています。現代の日本語では自己を抑制する、耐え忍ぶこと、こらえること、などと、忍耐の意に用いられています。

  この「我慢」は仏教辞典によると、「七慢」の一つに数えられています。その七慢とは次の七つです。
①慢・・・劣った人に対して、自分の方が秀れていると思う心。
②過慢・・・自分と等しい人に対し、自分の方が秀れていると思う心。
③慢過慢・・相手の方が秀れているのに、自分の方が秀れていると思う心。
④我慢・・・自分の考えを唯一に思って、おごり高ぶる心。
⑤増上慢・・・まだ悟ってもいないのに、悟っていると思い込む心。
⑥卑慢・・・人よりはるかに劣っているのに、あまり劣っていないと思う心。
⑦邪慢・・・悪事をしても、罪の意識ももたぬ思い上がりの心。

 こうした「我」を中心とした執着心(慢)がある限り、決して向上はなく、清浄な心も得られません。この「我慢」がどうして辛抱するという意味に用いられるようになったのかということですが、たぶん自尊心という我が、ある程度強くなければ、苦難を辛抱するだけの気力が出ないと考えられたところから、辛抱の意味に用いられるようになったのではないかといわれています。

堪え忍ぶ

 「自分の考えを唯一に思って、おごり高ぶる心」という意味の仏教語である「我慢」が日常会話では、耐える、辛抱するの意味で使われています。このように、仏教語の本来の意味が変わってしまい、常用語として用いられているものに「娑婆」という言葉があります。
 もともと「娑婆」という仏教語は、この世とは、何ごとにも耐え忍ばなければ生きていけないところという意味です。ところが、この「娑婆」という言葉も日常会話ではまったく逆の意味に用いられているようです。

 「娑婆」はサンスクリット語の「サハー」をそのまま音訳した言葉で、娑婆という漢字そのものには何の意味もありません。この世の中は人間関係のトラブルや迷いや悩みに満ちていますが、この世で生活する以上、すべて何ごとにも耐え忍ばねば生きていけないところ、忍土という意味です。ところが刑務所から一般社会に復帰することを「娑婆に戻る」と言うように、娑婆があたかも楽天地のように、忍土とはまったく反対の意味として誤解されているようです。

  御誕生寺の板橋興宗禅師がこんな話をされました。生きものは逆境にさらされると生命力を活気づかせて強くなる。インゲン豆のつるは下から見れば支柱に右巻きにまとわりついて成長する。そのつるを紐で縛って真っ直ぐ伸ばして育てると、豆の収量が1
5倍になる、左巻きにして成長させると収穫量は2倍になるという。
 鰻の養殖で、稚魚のシラスをカナダからですと12時間かかって空輸します。すると8~9割は死んでしまうそうです。だがその中に鯰を放して運ぶと2割は食べられてしまうが、8割は活き活きとして日本に着くという。


 このように生きものは逆境にさらされると生命力を活気づかせて、強くなるということから、人間の生き方として、「我慢」も 「娑婆」も、苦悩にどのように向きあっていけばよいのか、生き方を模索することにおいて、苦悩の克服、逆境での生命力を高める意味から、仏教語としての意味を変えて日常会話の言葉になっていったのでしょう。

忍辱行

 仏教語としての「我慢」という言葉のもとの意味は、「自分の考えを唯一に思って、おごり高ぶる心」という意味ですが、常用語としては、「耐える、辛抱する」の意味で使われています。それは、自尊心という我を強く出さねば、苦難を辛抱するだけの気力が出せないと考えられたところから、辛抱の意味に用いられるようになったのではないかといわれています。

 また、仏教語である「娑婆」という言葉も「暴風に翻弄される船の中で右往左往してみてもどうにもならない」のと同じで、世の中何処へ行っても自由気ままにならないことばかりだと腹にすえて、あるいは開き直って、耐え忍ばなければ生きていけないのがこの世の中だと認識してはじめて活路が見出される。だから何ごとも忍耐の心が大切で、耐え忍ぶことで安楽な生き方ができる。そういう意味の仏教語である「娑婆」という言葉も、常用語になりました。

 日本は豊かな国になりました、ところがとりわけ若者には困難に出合うと逃げ出してしまったり、無気力になってしまう人が多いようです。また逆境に立ち向かうことが不得手で逃げ出したいと思うけれど逃げ出せずに、抑うつ症状になったり、独りぼっちの悲哀感から生きていても仕方がないと感じてしまう人もあるようです。

 般若心経では、悩み苦しみの無い世界である彼岸に渡ることが人生の目的だと教えています。それには六波羅蜜の菩薩行がともないます。六波羅蜜の菩薩行の一つが忍辱行(にんにくぎょう)で、堪忍すること、耐え忍ぶことです。この世は苦しみに満ちた世界であると認識して、果敢に生きぬくことが忍辱行です。「忍辱行あるところ、苦しみに満ちたこの世が安楽の彼岸となる」。仏教語の「我慢」も 「娑婆」も、こういう意味ですから、生きる手引きの言葉として、日常会話でつかわれるようになったのでしょう。

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