2015年12月1日 第203話             

菩提心

 
     釈迦牟尼仏大和尚、菩提樹下にあって金剛座に坐し、
     明星を見て悟道して云く、「明星出現の時、我と大地
     有情と同時成道す」と。     永平広録
            

名聞、利養の心を捨てる

 悩みや苦しみが一つもないという人はいないでしょう。生老病死についての悩みや苦しみは、人であるかぎりどなたにもあります。しかしそれとても、その悩み苦しみは一様ではありません。そして生き方も人それぞれにちがうでしょう。だが、悩み苦しみながらも、どのように生きぬくべきかということは、だれにでも共通する課題です。

 どうして、人はさまざまな悩みをかかえながらも、生きていかねばならないのでしょうか。「滑っても転んでも登る富士の山」ですから、悩みながら生きていくのが人生かもしれません。ところが悩みながらも生きていければよいのですが、精神的に沈んでしまうと一歩を進める気力すら萎えてしまう。これではいけないと思えば思うほど、自分ではどうすることもできない、そんな状況に陥ってしまうと生きていくのがつらくなる。

 どうして人は悩み苦しむのでしょうか。自分だけの狭い考えに執着することを我執という。自己とは我執の凝り固まりですから、悩み苦しみの原因は我執にあるようです。我執はさまざまな欲そのものであり、我執が自己を苦しめることになる。だから、我執を離れるべきですが、欲は魅力的であり、離れきれないから煩悩が生じます。生じる煩悩により苦しむ、それを無明という。だから、悩み苦しみからのがれるためには、我執を離れ無明をあきらめることが肝心です。

 我執を離れて、悩み苦しまなくてもよい生き方をしようと、自分で発願することが、悩み苦しみのない解脱(涅槃に至る)への道につながります。これを菩提心をおこすといいます。出世や金儲けをして長生きしても、能のないことで、本当の生き方をしなければ、何にもならないと心に決めるべきです。名聞、利養の心を捨てないと菩提心はおこせません。

無常を観じる

 煩悩を断ちきり涅槃に至る道が仏道です、吾我の塊では仏道になりません。そのためにはまず無常を観じる心がなければ、
仏道にならない。無常の風が吹くと出世や金儲けは少しも役立たず、知識にとらわれても意味のないことです。人間のからだだけでなく、山も川も宇宙も生まれ変わり、死に変わりしている無常の世にあることを観じたならば、我執を離れ名利を離れて、はじめて本物にふれることができるようになる。

 無常を観じたら光陰の速やかなることをおそれるから、つまらぬことに心も動かない、今しかないから呑気にかまえていられないと思うようになる。無常に徹していなければ、名利の落とし穴にはまり、本当の仏道になりません。無常を観じることで我執を離れ、真の自己に目覚めることができます。生滅無常を観じる心も菩提心です。

 お釈迦さまは苦行すること6年の後に成道された。12月8日、「暁の明星が現れた時、自分と大地のありとあらゆる衆生は同時に悟りを得た」と、お釈迦さまはいわれた。菩提心とは無上正等覚心で梵語では阿耨多羅三藐三菩提心(あのくたらさんみゃくさんぼだいしん)という。阿耨多羅は無上、三藐とは正等、三菩提とは正覚ということで、この上もなく正しいお悟りの心ということです。無上正徧智ともいう。お釈迦さまのお悟りが阿耨多羅三藐三菩提心です。

 人間はとかく損得でものごとを認識し行動しようとします。ところが、この世は損得で成り立っていないから、川の流れに逆らうと流されてしまいます。川は高きより低きに流れ行く、この世の真理を「法」という。釈迦牟尼(仏)の悟られた真理(法)ですから「仏法」です。
 お釈迦さまは「明星出現の時、我と大地有情と同時成道す」と、阿耨多羅三藐三菩提心、すなはち仏法を悟られたのです。

日々是仏道

 神応寺では「心の悩み・人生相談」をお受けしていますが、悩み苦しんでいる人がとても多い。悩みが解消できればなんでもないことですが、多くは精神的な苦痛がその人にとって大きなストレスとなり、心身に支障をきたすことになります。それで、どうすれば上手く乗り越えていけるのか、また苦痛を和らげることができるのか、そういう相談事が多い。

 ロダンの作品に「考える人」というのがあります。悩み苦しみの自分の姿は、まさにロダン作考える人をイメージしたらよくわかるでしょう。ほほずえついて、下向きに考え込んでいると、どんどん気持ちが沈んでいく。だから、その姿勢を変えるべきです。
 ではどうするかですが、朝、目覚めたらまずその場でちょっと坐ってみる。背筋伸ばして、顎ひいて肩の力ぬいて、お腹の底からゆっくり息を吐くこと数回、そして、自分に言い聞かせます「今日は良いことが有る、悪いことは起こらぬ、過去は考えない」と。それから歯を磨いて、顔を洗う、鏡に映る自分の顔を笑顔の顔にして、今日一日の顔とします。

 一呼吸で一千個もの自分の古い細胞が死んで、そして新しく一千個の細胞が生まれます。だから、一呼吸の前と後では自分が新しい私になっています。なのに、頭はちっとも変わらない私だから、過去にこだわってしまうのです。これが、悩み苦しみの自分です。それでいつも背筋伸ばして姿勢正しくして、肩肘張らず、頑張らず、自然体で息の仕方を吐く呼吸法とする 。過去を引きずらないで、常に新しい私を生きることです。

 いつでも、何処でもできるから、時々、背筋伸ばして、肩の力ぬいて、ゆっくりと息を吐く。呼吸とは、吸うて吐くでなく、吐いて吸うです。呼吸方法を変えるだけでも、気分が落ち着きます。生き方を変えるとは、姿勢正しくして、肩肘張らず、息の仕方を変えることです。いつも背筋伸ばし、自然体で、吐く呼吸法を意識すると、日々新しい私で生きられます。

有心・・・無心にこだわらず

 仏教とはこの世の真理(仏法)そのものですが、その解釈を間違えると、仏法からそれてしまいます。
 自分の立場で、自分の目や耳でものごとをとらえると、どうしても目の前のあらゆるものが、自分との相対として受けとめてしまう。相対として受けとめてしまうと、ものの本質(真実の姿)を見失ってしまいます。けれども、自己の思量分別のはたらきによらず、自分を離れる、道元禅師は自己をわすれるといわれたが、小さな自己という執着心から離れて、天地いっぱいの自己になれば、ものの本質(真実の姿)を見失うことはないでしょう。

 すべてに縛られているから、自由になれない。これを離れて本来の自己の尊さに気付くことを解脱という。天地いっぱいの自分のことを本来の面目(めいめいがもともと具えている真実のすがた)といいます。本来の面目(真実のすがた、すなわち仏)を現成(仏法の真実がいまここに実現する)させる生き方をお釈迦さまは教えられた、これが「仏道」です。

 有るということにこだわると、無いということにもこだわってしまう。有るとか無いとかの判断からはなれるということが「無」で、只管打坐とはそういうことです。有るとか無いとかにこだわって判断するよりも、「無」となりて坐りましょうというのが禅の教えです。

 道元禅師は「この法は、人々の分上にゆたかにそなわりといえども、いまだ修せざるにはあらわれず、証せざるにはうることなし、はなてばてにみてり、一多のきわならんや、かたればくちにみつ、縦横きわまりなし」と修証一等であるといわれた。菩提心(証)は道心でもあり、それは日々の仏道(修)そのものです。時間の使い方は命の使い方です、だから、日々是仏道で、「今を生きる」という一語に尽きます。

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過去にこだわると未来が見えません。
感性と向上心を高め、
この世の真理を求め続けることに
楽しみを見いだそうとするならば、
生きている究極の喜びを感じることができるでしょう。
つらく悲しい日々の中にこそ、楽しいことを見つけましょう。
今まで気づかなかったことがあるはずです

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