2016年3月1日 第206話             

最後の説法

 
    諸仏は是れ大人なり。大人の覺知する所、ゆえに
   八大人覚と称す。この法を覺知するを涅槃の因と為す。
   我が本師釈迦牟尼仏、入涅槃の夜の最後の所説なり。
                      正法眼蔵八大人覚
      

形あるものは壊れゆくものである

 禅の修行道場では朝晩に梵鐘を打つ。朝の坐禅の時には暁鐘が、夜の坐禅の時には昏鐘の音が聞こえてくる。ゴーンと聞こえた時、この一声が人生最後の音かもしれない、もう二度と聞けないかもしれないと思うとき、またゴーンと聞こえてくる。そして鐘が打ち上がると坐を解く。

 禅堂で食事をいただくとき、この食事が最後の食事となるかもしれないと、ふとそう思うことがある。そう思うと、いただく食事がいっそう味わいのあるものになる。生きているのは食事をいただいてまた次に食事をいただく、その間が生きている時間かもしれません。だが、生きているというのはもっと短かく、梵鐘一声の余韻が消えないうちか、瞬きの一瞬か、いずれにしても確かに生きているのは、今、この一瞬、刹那というべきでしょう。

 「仏遺教経」はお釈迦さまの遺言です。二月十五日の中夜にお釈迦さまは入般涅槃あそばされた。命尽きるまさにその前に弟子達へ最後の説法をされた。この説法の後にはもうお釈迦さまのご説法はなかったのです。
 お釈迦さまは最後の教えとして八大人覚を説かれた。とても意味深いものであるから、よく肝に銘じて聞法しなければなりません。

 八大人覚とは、偉大なる人の覺知する八種の法門で、少欲・知足・楽寂静・勤精進・不妄念・修禅定・修智慧・不戯論である。これを覺知することで心が寂まり涅槃に通じる。形あるものは壊れゆくものであるから、諸行無常のまっただ中にあって、ひたすら涅槃に向かって、修行を怠ることなく努めよという教えです。

もろもろの苦悩のもとは貪欲にあり

一つには少欲
(しょうよく) 
かの未得の五欲の法中において、広く追求せざるを名づけて少欲となす
 五欲とは、財・色・食・名・睡眠の欲で、多欲の人は、おのずから苦悩もまた多い。欲を少なくする人は、望み求めることもなく、この苦しみのうれいもない。欲を少なく保てる人には安らぎがある、これを少欲と名づく。
少欲は気楽なり

二つには知足(ちそく)
巳得の法中において、受取するに限りを以てするを、称して知足といふ
 足ということを知らない人は、たとえ富めりといえども心は貧しい。足を知る人は、貧しいといっても心が豊かである。足を知らない人はつねに五欲にまどわされているから不知足の人には安心ということがない、これを知足と名づく。
奪いあえば足らぬ、分かちあえば余る

三つには楽寂静(ぎょうじゃくじょう)
諸々の心乱れる騒がしさを離れ、静所に一人住まいするを、楽寂静と名ずく
 楽をギョウと読めばねがうということ、ラクと読めば安楽ということです。世間の束縛に執着すればするほど、さまざまな悩み苦しみの中に埋没してしまう。絶対の安らぎの楽しみを求めたいと思うならば、心乱れる騒がしさを離れて静かなところに一人で修行するがよい、これを遠離という。
遠離すれば、安楽あり

四つには勤精進(ごんしょうじん)
諸々の善ことを努力し実行することを精進という、専一で雑じりけなく、進んで退かず
 もろもろの善きことにおいて進んで退かず、怠ることなく努力すること、これを精進という。少量の水であっても常に流れておればついには石をも穴をあける。
不断の努力が、困難をなくす

借りものでなく、自分の問題として修行すれば、ほんものになる

五つには不忘念(ふもうねん)
また守正念と名ずく、法を守って失せず、名づけて正念と為す、また不妄念と名ずく
 正しい仏の教えを胸に刻みつけ、けっして忘れないこと。念力堅強に努めれば、五欲の賊中のいろいろな誘惑があっても、その誘惑に害せられない、これを不忘念と名づく。
正法を念じて、心に銘記すべし

六つには修禅定(しゅぜんじょう)
法に住して乱れず、名づけて禅定という
 仏道に心身を集中する。法により安らって乱れないことを禅定という。
 禅定を修するもの、心を摂するものは心が散乱することがない。
坐禅を修するもの、内なる仏心が湧き出る

七つには修智慧(しゅちえ)
聞思修を起こすを、智慧と為す
 教えを聞いて得る智慧、道理を正しく思念して得る智慧、仏道を実践して得る智慧を真実の智慧と名ずく。ほんものの悟りという智慧が湧き出ると、人生は無明で一寸先は闇であるが、借りものでないから無明黒暗の大明灯になる。
耳に聞き心に思い身に修せば いつか菩提にいりあいの鐘

八つには不戯論(ふけろん)
証して分別を離れるを不戯論と名ずく、実相を究尽する、すなはち不戯論なり
 もろもろの無益な分別や議論をすると心が乱れる。凡夫の誤った思慮分別をはなれ、真実のすがたを究め尽くすことを不戯論と名づく。
戯論を捨離するところ、実相あらわなり

この法を覺知するを涅槃の因と為す

 道元禅師は仏法を100巻に著作して、後世の人々のために残そうと思われた。ところが75巻をまとめられたところで、老いと病のために筆が持てなくなった。それで弟子が清書し、また聞き取ってそれを文章にして残されたのが十二巻ありました。この八大人覚はその十二巻の最後の一巻であり、この八大人覚より後はもう説かれることがなかったのです。

 お釈迦様が人生最後にお説きになった教えを、そのままに道元禅師も「正法眼蔵八大人覚」としてお説きになりました。建長五年正月六日、永平寺で記されたが、体力の限界にあって法孫の義演によって清書されたと道元禅師の法嗣である懐奘が記述している。この年の八月二十八日に、道元禅師は五十四歳で入寂されました。

 お釈迦さまのご入滅が近いことを感じて、不安な思いにあるアーナンダや弟子達にお釈迦さまは「自らを灯とし、自らを拠り所とし、法を灯とし、法を拠り所として怠ることなく修行を続けなさい」と、つげられた。
 まさに、「自らを灯とし、法を灯とすべし」というのがこの八大人覚です。道元禅師も同じく、如来の究極の正しい安らぎの心(正法眼蔵涅槃妙心)として、「正法眼蔵八大人覚」を説かれました。

 人間として生まれてくることは難しい、そして仏法に出会うことはさらに難しい。寝て明日の朝、目が覚めるか覚めないかわからないのだから、今、この一瞬を無為に過ごしてはならない。
 八大人覚は二月十五日にお釈迦様が説かれた最後の教えであり、「正法眼蔵八大人覚」 は道元禅師の遺経なり。そういうことですから、後世の仏弟子はこれをくりかえし身につくまで学ぶべしということです。この八大人覚の教えを聞くことのできた機縁をありがたく思い、これを実修しなければなりません。

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