2016年8月1日 第211話
             
不戯論(ふけろん)

     汝等、若し寂滅の楽を得んと欲すれば、
     唯だ当に善く戯論の患いを滅すべし。
     是れを不戯論と名づく。  正法眼蔵八大人覚
       

不染汚(ふぜんな)

 夏は草の生長が早く、寺の境内の除草作業は欠かせません。除草してもすぐに生えてくる。そして美しく咲く花は長く咲いてほしいと願うけれど、百日紅(さるすべり)のように長期間に咲く花はめずらしくて、花の命は短く、すぐに散ってしまう。草は嫌われても生え、花は惜しまれて散っていきます。

 けれども草は嫌われても生え、花は惜しまれて散っていくとは、人間の思いであって、嫌われて生えている草などありません。惜しまれて散っていく花などありません。お寺の境内を美しくということで、はびこる雑草は取り除き、庭木は剪定し、散った花は掃き除きます。

 禅宗の掃除についての考え方は、汚れておれば美しくすることはもちろんですが、汚れの有無にかかわらず、日々清掃することが修行であり、掃除が日課になっています。境内は不染汚(悟りの境地)のところであるから、掃除して不染汚を保ちます。そのために毎日の掃除は欠かせません。日々掃除するのは、掃除そのものを不染汚の修行としているからです。

 人間は雑草と称して草を取り除き、花の命は短いと嘆きます。このように、これは必要だ、これは不要だ、これは好きだがこれは嫌いと、人の見方考え方は何ごとにつけてもご都合次第で、ことごとくが凡夫の認識です。これを違順(苦の境界と楽の境界)相争うという、違順とは好き嫌いという人間の概念で、この違順が相争うのです。境内の清掃において、はびこる雑草は取り除き、庭木は剪定し、散った花を掃き除くのは、違順相争うことでなく、不染汚を保全するためです。


唯有一乗法(ただありいちじょうほう)無二亦無三(むにまたむさん) 

 人間の行動はどちらを向いているかといえば、いつも得のいく方向ばかりを向いており、損のいく方向にはおのずから背をむけてしまいます。心を乱し、正しい判断をさまたげる煩悩により人間はのぼせあがります。欲望をむきだしにして損得を見定めるから、有所得でのぼせてしまうのです。迷いの根本はみな有所得であり、得をしょうと思ってのぼせてしまい自分を見失ってしまいます。

 大きいか小さいか、美味しいか美味しくないか、好きだ嫌いだ、幸せだ不幸だと違順相争うことばかりです。私たちは日々にそういうことに思いをめぐらしていますが、それには際限がなく、何がよくて何がいけないのか、わからなくなってしまいます。つまらない自己の嫉妬心がそう思わせているのであって、こだわりの思いを捨てれば、いずれでもよいことです。

 なにごとにつけても、自分の思い込みでものごとを受けとめて判断するとおかしくなる。ものごとをありのままに認識できないで、自分の思うままに把握して、そして行動することを妄想という。またことごとく対比したり区別したり、差別して受けとめうけとめてしまうことを分別という。
 妄想や、分別で受けとめると偏りがあり、なにごとにおいても相対で把握するから実体を正確に受けとめることができないで、結局は自分で悩み苦しみの原因をつくってしまうことになる。

 妄想や分別をしなければ、実相(真実の姿)がよく見えるのですが、好きだ嫌いだと、人間は妄想・分別するからいけません。好き嫌いがあれば、それは迷いなり、迷うから実相を見失ってしまいます。心が心に騙される、自分が自分に騙されてしまうのです。
 法華経に、「唯一乗の法のみありて、二も無く、亦三も無し」と、仏となる道はただ一つ一乗であり、二乗、三乗にはない。仏の乗り物にすべてを乗せてしまう、すなはち、心静かに正身端坐すれば、これが唯有一乗法ということで、妄想や分別が生じないから、実相がよく見える。

人、船に乗りて岸を見れば岸動く

  お釈迦様のお説きになるところでは、すべてのものはみな仏であるとされています。ところが凡夫という仏と、ほんまもんの仏とは異なるところがあります。凡夫の仏には、私が、私は、私の、というように、すべて、が、は、の、がついてまわるけれど、ほんまもんの仏にはそれがない。が、は、の、これ欲望につきしたがう凡夫の姿そのものです。

 が、は、の、この自己主張がなければ、欲望という執着もないのですが、凡夫の仏はことごとくに執着心をもつから悩み苦しむことになる。執着すると、ものごとをそのままに受け取ることができないから、自分中心に見たり、自分勝手に聞いたり、思ったりしてしまい、正しく把握できず、それで自分自身で悩み苦しむことになってしまうのです。だが、自分は凡夫であるという認識が少しでもあれば執着心も抑えられるでしょう。


 神応寺の「心の悩み・人生相談」に、死にたいと、自分の気持ちをよせてこられます。生死一如だから、生とは一つのもので、生まれたら死ぬ。だから、生きる意味を明らめずして、死にたいと思うなかれです。
 死にたいと思う人は、主人公は自己である仏性であるはずなのに、すっかりお客である煩悩に取って代わられている。仏性の性というのは無限の過去から無限の未来にわたって、少しも変化しない、たったひとつの真理のことです。「性に任じれば道に合す」で、法性の真理に任せれば、悩むことも、苦しむこともなくなる。だから煩悩のるつぼに堕ちて自殺する人など、まったく主客転倒というべきです。煩悩は発熱しているようなものだから、時が来れば冷めるのに、のぼせ上がってしまうと自己を見失ってしまいます。

 悩みというものは自分勝手に考えるところから生じる。自分勝手に考えるから難しくなり、自分流に思ったり考えたりするから間違えてしまう。
 人船に乗りて岸を見ると、岸が動いているように見える。岸が動くのでもなし、自分が動いているのでもなし、船が動いているのです。静慮すると本当の自分が見えてくる。


乱心戯論(けろん)捨離(しゃり)すべし

 身心を乱し悩ませ、正しい判断をさまたげる心のはたらきのことを煩悩といいます。貪り・怒り・無知で愚かな心が煩悩の根源です。だから自己の体は煩悩の入れものであると認識すればよい。自己中心の考えによる執着から煩悩が生じます。そして煩悩が妄想分別を生じさせてしまうのです。

 煩悩に振り回されるのは、わがまま勝手な自我に汚染した状態にあるからです。自我に染汚される以前の寂静な世界、すなはち悟りの心そのものを不染汚といいます。妄想も分別も生じない、それが不染汚のところです。したがって煩悩や苦悩に満ち溢れた現実の自己を認めて、反省することが不染汚を求める動機になればよいのでしょう。

 自己の観念や感情で推量したり、いたずらに言葉で語ることもよろしくない。自己の思い込みとか経験なども忘れて、力むことなく無心になれば、自我に染汚される以前の本来の自己に立ち帰ることことができる。落ち着いて物事に動じなければ、迷いや苦しみに振り回されることはないということでしょう。

 「証して分別を離るるを、不戯論と名づけ、実相を究尽す、乃ち不戯論なり」と、道元禅師はこのように説かれた。戯論とは妄想や分別による意味の無い議論のことで、無益な議論をすると心は乱れてくる。 不戯論とは妄想分別を離れて、真実を究めつくすことです。静寂で、乱心の消滅した安楽な境地を願うならば、戯論の弊害を滅却するようにしなさいと、お釈迦さまは最後の説法で不戯論を説かれました。

戻る