2016年12月1日 第215話 |
円相(まんまる) |
大師釈尊、まさしく得道の妙術を正伝し、 また三世の如来、ともに坐禅より得道せり。 正法眼蔵・弁道話 |
人間の造形 伊賀焼の里に行きました。轆轤(ろくろ)でつくる茶碗はまんまるですが、楕円につくられたものや、いびつなものもある。深いものもあれば浅いもの、図柄や色合いもさまざまです。茶碗はまるが基本形でしょうが、ものによっては少し楕円であったりへこんでいたり、そういうのがまた趣があっておもしろい。けれども、使ってみて飽きがこないものがよいのでしょう。どの茶碗にしようかと、見比べている時が楽しいものです。 皿もまるや四角や三角、木の葉の形をしたものなどさまざまで、食器として食材や使い手の料理を想定してのものなど、焼きものは形で見てもおもしろい。また花入れや茶器などの造形はさらに多彩である。土でかたちを造り、高温で焼くことでさまざまに変化する。ゆがんだり、でこぼこしたり、釉薬などが炎により変化して、さまざまに焼き上がり、同じものがないというのも伊賀焼のおもしろいところでしょう。 太陽系の地球も火星も、その他の星々もみなまるい。地球上のみならず宇宙に存在するものの形の基本はまるいのかもしれない。まるいものが現実には様々な形をして存在していますが、三角や四角というものは人間の造形物であって自然界にあるとしてもそれはまれなことでしょう。人間の考えにより生み出されたのが三角や四角の造形かもしれません。 まるは図形では〇であり、字で表すと丸とか円と書く。また数字では〇はゼロを意味します。欠けていないことをまん丸とか円満といいます。 焼きものは丸、三角、四角が立体になって、しかもさまざまな図柄や色彩がほどこされて高温で焼かれて作品となる。伊賀焼は登り窯で焼くことで多様に変化して、多彩なものがうまれる。焼きもののように様々な姿があるのがこの世の中であり、一様でなく個性があるからおもしろい。伊賀焼のおもしろさは、この世のことごとくを形にしたというところでしょうか。 |
〇丸、△三角、口四角 人間の造形は、丸〇、三角△、四角口と多彩であるが、よくまわりを見回してみれば自然界では三角や四角のものはなく、丸が基本であるようです。それは植物をみればよくわかる。樹木も年輪のあるものはそのとおりであるが、大根やキャベツ、根菜類もみな丸い、花も葉もまるが基本形でしょう。宇宙に存在する星はまるい。回転している地球も月もまるい。そしてその軌道もまるい。 四角や三角も角がとれていけば丸になる。ごつごつとした岩も川の流れで次第に角が取れて丸くなる。自然界ではことごとくがまるであって、まるでないものも丸くなっていく。それは宇宙がまるであるから、それに順応して角がとれて基本のまるとなるのでしょう。 自己中心、自分本位の生き方では角があるから、ぶつかりあい、もめごとになる。まんまるを円満といいますが、利他の生き方は何ごとにつけても円満である。 去る11月14日はスーパームーンとよばれる大きな満月の夜であった。月の軌道がやや楕円であるから満月が大きく見えることがあるのでしょう。月の満ち欠けは地球で見ている人間の側からは三日月であったり満月であったりする。太陽に照らされている面積が日々異なっているだけで、月は常に同じなのに、人間の思いを重ねるから日々にちがった月を見ています。 この世の実相すなはち真実真理を文字で表すと大円鏡智で、形で表すと〇です。それを一筆で円相とします。生きているのは一瞬の今であるから、円相は休むことなく一気に書きます。一気に書かずに一服しながら書くと円相は書けません。丸〇、三角△、四角口の図柄を描いて、これがこの世の実相であると云った禅僧がありましたが、いっぷくしながら書くと邪念が生じて円相は三角△にも四角口にもなる。 |
角がとれればまるくなる お釈迦様が育ったシャカ族のお城には4つの門があったという。お釈迦様がご出家された時の話として伝わっていることに、4つの門にはそれぞれに生老病死の人の姿があったという。生老病死を逃れられない人の苦しみであると理解すれば、生きていくことが苦しみとなる。それで人の姿が四苦ならば、かたちで表せば四角ということでしょうか。 生き方が自己中心、自分本位であるならば、なにごとにつけても欲が絡んでくる。欲望は身・口・意の三業より生じて尽きることがない。その身・口・意の三業より生じる欲望が煩悩であり、煩とは頭が燃えさかっている状態をさし、それが悩み苦しみの根源である。煩悩の根源が身・口・意の三業であるから、人の姿をかたちで表せば三角でしょうか。 学校でのいじめや、職場でのパワハラは、受ける側にすると生きずらい雰囲気になる。とげとげしく角張ったいびつな人間の姿です。こうしたいじめやパワハラという醜い人間関係をかたちで表せば四角とか三角の関係です。角と書いて「つの」と読めば、煩悩のゆがんだ角(つの)を突きあわし、絡みあうというところでしょうか。 生老病死もそのままにうけとめれば、あたりまえの姿であるが、人間の考えや思いを重ねると、それを苦しみと受けとめてしまう。そして、その苦のもとは身・口・意の三業より生じるから、本来の素直な自己をはなれていびつな自己を演じてしまうと、苦しみ悩みぬかねばならなくなってしまいます。だが、生老病死は自然なことであり、苦しみにあらずで、煩悩もその根源が自己自身であることを識れば、ことさらに悩み苦しむこともない。つまり四角も三角も、角がとれればまるくなるからです。そういう受けとめができれば心静かな生き方や、おだやかな人間関係を保つことができるでしょう。 |
大師釈尊、三世の如来、ともに坐禅より得道せり どのようなものでも、どんなことであっても、それをそのままに見たり聞いたりすれば、ありのままに受け取れるのですが、自分の考えや思いで見たり聞いたりしてしまうから、ほんとうの受けとめができない。同じくものごとを今のこととして受けとめればよいのに、過去の思いや未来の不安を重ねてしまうから、現実を見誤ってしまいます。それでことごとくが悩みや苦しみに化してしまうようです。だから、日々の生活がそのまま修行であると心得て、ものごとをありのままに受けとめる日頃の自己訓練が必要でしょう。 なにごとにおいても、自分の考えや思いで見たり聞いたりして受けとめずに、ありのままに見て、素直に聞くことができれば、それが悩みなき生き方に通じるということでしょう。日常生活において角張った姿勢であればとてもしんどくて生きずらさを感じるものです。だから肩肘張らず、自然体であれば気楽に生きられる。呼吸もゆっくりとして常に整っておれば身心がおだやかになるから、円満になれるでしょう。 宇宙の星はそれぞれにまるい軌道による公転や自転の動きをしています。太陽と地球、月の公転や自転が暦の基本になっており、時刻はそれを元にして設定されている。人間の時間は人間が設けたものですが、生きものは時間を持たず一瞬に生きています。一瞬一瞬をまるく生きることができれば、円満な人生を生きることができる。生きているのは今という一瞬だから、常に今が人生の出発点です。それで円相は一気に一筆で書きます。 角々しい姿勢をとらずに、姿勢正しくして自然体で足を組み坐り、荒々しい呼吸をしないで、呼吸を整えることで自己が円満になる。すなわち円月相である身が現れる、身をもって画くのが円相です。坐禅はそのままが悟りの円月相であり、大宇宙です。それが12月8日、明けの明星の輝きとともに成道されたお釈迦様の悟りであり、2500年を経て祖師方により伝えられてきた。「大師釈尊、まさしく得道の妙術を正伝し、また三世の如来、ともに坐禅より得道せり。」と、道元禅師は教えられた。 |