2017年2月1日 第217話
             
除我慢

    仏性の道理は、
    仏性は成仏よりさきに具足せるにあらず、
    成仏よりのちに具足するなり。
    仏性かならず成仏と同参するなり。
    この道理、よくよく参究功夫すべし。 正法眼蔵・仏性

  仏性(一切衆生が本来もっている仏となるべき性質)の道理というのは、
   仏性は成仏(仏となること)より前にそなわっているのではなくて、
   成仏してのちにそなわるということです。仏性は必ず成仏と同時に現れる。
   この道理をよくよく参究(参禅して仏法を究める)し、くふうすべきです。 

  

牛や馬、犬、猫は感情を表現する

 日本ダービーで優勝したキーストンという競走馬がいました。昭和42年の阪神競馬場のレースで先頭を走っていたが第四コーナーで脱臼して騎手を振り落としてしまいました。競走馬は暴れてもおかしくないところですが、三本足で激痛に耐え、よろけながら気を失っていた騎手のもとへ戻ってきて、痛い膝をついて安否を気遣うように鼻面をすり寄せたそうです。

 やがて騎手は気絶からさめ、目の前にやさしい目をしたキーストンの顔があるのに驚きました。キーストンは左第一関節足完全脱臼で予後不良と診断され、直後に安楽死の処置がとられました。これは騎手と馬との悲しくも美しい物語です。伝説の名馬キーストンの感動物語として、今に至るも語り伝えられています。

 高齢化社会では、パートナーを亡くした人が残ることになります。子供があっても同居していないので、一人住まいが多くなりました。それで犬や猫を飼っている家が増えました。その犬や猫はペットという存在を超えて、大切な家族として飼われているようです。悲しいとき辛いとき、犬や猫は飼い主の気持ちを受けとめて、愛嬌をふりまいてくれます。そして裏切らないから、信じ合える相棒です。日々の生活において悲しみや喜びをともにして、気持ちが通じ合う、かけがえのない存在になっています。

 馬や牛は農耕や運搬のために、そして犬も、猫も、太古から人間とつきあってきた生き物であり、人間と共生してきた生き物です。こうした生き物と艱難辛苦の生活をともにしていると、喜怒哀楽の感情のやりとりがあるから、飼い主の気持ちを読みとっていると思われます。それで、牛や馬、犬、猫に仏性が有るのか無いのかと問うことになります。

狗子仏性

 中国は唐代の話です。南泉普願の法を嗣いだ趙州従諗和尚にある僧がたずねました。「狗子に還って仏性有りやまた無しや」(狗子にも仏性が有るか無いか)と。狗子とは犬であり、犬にも仏性があるかどうかと一僧がたずねたところ、趙州は「無」と答えました。
 仏性とは一切衆生が本来もっている仏となるべき性質で、仏の心・仏の命です。狗に仏性有りというのも、仏性無しというのも、有り無しというこだわりにすぎません。有る無しは分別心そのものであるから、分別心があるかぎり仏性の有無は解し難い。それで、有る無しを離れるべしと、趙州は「無」であると答えたのです。

 このように「犬にも仏の命が宿っているのでしょうか、あるいは、ないのでしょうか」という問いに、趙州和尚は「無」と答えました。また別の僧から同じ質問を受けて、今度は「有」と答えています。相反する答えをしたのはどういうことでしょうか。それは無といい、有という概念にとらわれている相対的認識を超えなさいという戒めです。有とは何か、無とは何かと詮索すると、迷路にはまり込んでしまうから、心のやすらぎを得ようと思うならば、有と思い無と思う対立的認識をしないことだということです。

 同じく南泉普願の法を嗣いだ長沙景岑和尚にある僧がたずねた。「ミミズが斬られて二つとなりました。両頭とも動いています。いったい仏性はどちらにあるのでしょうか」と。長沙和尚は「莫妄想」妄想してはならないと答えました。
 有りというのも、無というのも、動というのも不動というのも、ともに分別であり、ミミズを半分に切ってそのいずれに仏性があるのかと、それを問うても意味の無いことです。凡夫の立場からいう相対的な「ある」「なし」では仏性は理解できません。我執すなわち自己への執着心を除かないかぎり、妄想の迷路を抜け出ることができないからです。

 仏性の語は「涅槃経」に「一切衆生悉有仏性(いっさいしゅじょうしつうぶっしょう)」とあります。仏性は衆生が本来有しているところの、仏となる可能性であり、仏の本性です。ところが、この衆生のうちなる仏である仏性は、煩悩にかくされて、凡夫には仏のはたらきが現れていないのです。

人工知能ロボットに、仏性が有るか、無いか  

 人工知能が飛躍的に進化しています。人工知能に将棋の名人が負けてしまいました。公道に自動運転車が走り出しました。人工知能搭載の兵器が戦場に投入されています。核爆弾発射ボタンを人工知能が受け持つようになると、恐ろしいことです。やがて人工知能で人間の感情をも読みとれるようになり、俳句や川柳を詠むロボットも出現するでしょう。

 日常生活の場でも人工知能が便利さを受け持つようになってきました。そのうち人の感情を理解する能力を持つ人工知能ロボットが、高齢者の介護や生活介助のみならず、一人暮らしの寂しさや、悩み苦しみを癒やす同居人になるでしょう。犬や猫は裏切らない相棒であるけれど、生老病死の苦しみや悲しみをともないます。けれども人工知能のロボットの相棒にはそれがありません。

 淡雪はあたりの景色を一変させてしまいます。さらに雪が深く降り積もると、枯れた草木も石も、ここもかしこも、白一色の無垢清淨の光に変わってしまいます。雪を破って寒梅が香を放つところ、あたり一面が清淨で、不染汚(よごれていない)の世界です。やがて雪が溶けるとまた草木も石も、もとの姿を露わすが、不思議とかがやきに満ちています。あたたかな日の光が雪を解かして、草木も石も、みずみずしくかがやかせるからでしょう。自然のありさまは無常(変わりゆくもの)であり、そのままに仏性です。

 衆生とは、人はもちろん、牛や馬、犬、猫など、生きとし生けるところの有情の生物です。そして、有情のみならず、道元禅師は「草木国土これ心なり、心なるが故に衆生なり、衆生なるが故に仏性有り」と、草木土石、山も川も、すなわち無情のものも衆生であり、「一切衆生悉有仏性」を説かれました。
 人工知能を有情とするか、無情とするかはさておいても、人工知能ロボットに仏性有りや無しやと問いかける日がいずれ来るでしょう 

(なんじ)仏性を見んと欲せば、先ず(すべから)我慢(がまん)を除くべし

 趙州の「狗子仏性」の「無」とは虚無でもなければ、有無相対の無でもない。禅を参究(参禅して仏法を究める)するには、普通の心意識の分別心を断ち切ることができなければ、妙悟を得ることができないとされています。それで分別心を完全になくしてしまおうと「無」の一字のみをとりあげて、「無」という文字の概念に迷わされず、身につけた知識をすべて吐き捨てるために「ムー」と息を吐くことで全霊を集中させようとする修行者もあるようです。

 龍樹尊者が、「人々は、人間は幸福であることがこの世の第一のことであるから、いたずらに仏性を説いても、だれも見たものがないではないか」と。そういう問いに答えて「仏性を見ようと思うならば、まずは我慢を除くべきである」と言いました。我慢とは現代の日本語では、たえしのぶとか自己を抑制するという意味になっていますが、我慢は煩悩の一つで、強い自我意識から生じるところの慢心のことです。自己に執着すること、すなわち我執から起こるとされている我も慢も除かれておれば、そこに仏性が現れているということです。

 仏性とは、人間に本来具わる自性清淨心であり、凡夫・悪人といえども所有しているような仏心(慈悲心)だとされています。ところが、有るとか無いとか、頭でこねまわして、分別や感覚で考えてみてもわかりません。仏性は理解するものでないからです。姿勢を正しくして、肩肘を張らず、呼吸を整えて坐ります。しばし心を鎮めて端坐するところに本来の面目である仏性が現れます。

 「この法は、人人の分上にゆたかにそなはれりといへども、いまだ修せざるにはあらわれず、証せざるにはうることなし。」と道元禅師は説かれました。「狗子にも仏性が有るか無いか」ということの意味は、犬に仏性が有るはずだと、また無いはずだというのではなく、十分に修行のできた人でも、さらに修行するのだということです。
 自己に仏性が具わっているのだということを自覚しているのか、あるいは、まったく認識せずに日々を過ごしているのか、それによって生き方がおおいにちがってきます。すなわち自性清淨心・慈悲心に満たされた真実人体が自己であるとするならば、日々に自己の生き方を充実させようと心がけるからです。
 

戻る