2017年3月1日 第218話
             
即今、刹那

     光陰は矢よりも速やかなり、身命は露よりも脆し
                                 修証義

       

仏心と煩悩とのせめぎ合い


 人が人をいじめる。これは日常に不満心のある人が、矛先を他の人に向けていじめをするようです。不満心がなく、心が満ち足りておれば他をいじめることなどありません。いじめられやすいと見られてしまうと、弱いところにいじめの矛先が向きやすいから、いじめられる側の人は、たちまち打ちのめされてしまいます。
 不満心で煩悩の炎の燃えさかる人が複数いますと、何人もが一人を取り囲んでいじめてしまう。そうするといじめられる側にすればものすごい重圧にさらされることになってしまいます。

 人を殺めたり、盗みをはたらいたり、詐欺や恐喝、略奪など悪事に手を染めてしまうと、次々と悪だくみをしてしまう。悪事で得られるものはなにもありません。そういうこともよくわかっているのですが、弱い心が煩悩の炎を消し去れなくて、ついつい迷いの暗闇に入り込んでしまいます。煩悩の炎が燃えさかっている人々が徒党を組んで集団で動き出すと止められなくなる。それがテロであったり戦争につながっていくのでしょう。

 煩悩の炎が消せるかどうかは、自己の懺悔の心によります。煩悩の炎が燃えさかる時に懺悔の心がはたらけば、煩悩を滅却できて、また自分の本性である仏心を取り戻せます。仏心が揺らがなければ、やすらかな心境で生活ができますが、新たな煩悩がまた動き出してしまいます。人の日常というのはこのように仏心と煩悩とのせめぎ合いの日々というところでしょう。

 人が悩んだり苦しんだりしているのには、必ず悩み苦しみとなる原因、つまりその元があるはずです。それは煩悩のはたらくままに勝手気ままな生き方をしている自分自身そのものです。わがまま勝手な生き方をすると、かならず生きずらくなってきます。共生きの世の中で生きて行こうとすれば、共生きを乱す行いをすると、必ず生きずらさを感じてしまうものですが、それでも自分のわがまま勝手を押し通すと手痛い返しにあいます。

てふてふひらひらいらかをこえた

 「分けいっても分けいっても青い山」
 放浪の俳人といわれた種田山頭火は、ついに深い森に迷い込んでしまいました。分け入っても分け入っても、出口がなかなか見つかりません。悶々として煩悩の森をさまよっていましたが、やがてその森から抜け出ることができました。そこが永平寺でした。

 「てふてふひらひらいらかをこえた」
 一匹の蝶がひらひらと永平寺の法堂の高い屋根の甍を超えて飛んでいきました。その蝶とは、執着心が解きほぐれた山頭火自身でした。
 人には、だれにでも本性として仏性がそなわっています。仏性は仏心のはたらきにより現れます。その仏心は円満月の如くですが、煩悩の群雲がかがやきを遮ってしまいます。

 私たちは、心の動きとして、煩悩と仏心のせめぎあいの日々をおくっています。煩悩とは、執着心であり、燃えさかる炎です。この煩悩の炎が滅却できたら仏心が現れるけれど、一つの煩悩が消えてもまた別の煩悩の炎が出てきます。燃えさかる煩悩の炎は冷静さを失っていますから、ややもすると手がつけられなくなります。自分では消し去れないくらいの勢いとなれば、だれかに消してもらわなければおさまりません。

 この心の葛藤はいつも今、一瞬に起こります。したがって、今をどう生きるか、即今、自分の生き方を自分で導かなければならないということでしょう。たとえ煩悩の炎を消し損ねてしまっても、気がつけばその時が今ですから、即今、煩悩の炎を滅除すれば、仏心が現れて自分の本性に立ち帰ることができるのです。坐禅するところ、おのずから煩悩は滅却しているから、自分の本性である仏心を取り戻すことができます。

人生は片道切符
 
 人生には出発点があり終着点がある。電車にたとえると、始発駅から終着駅へということです。必ず終着駅に着くことになっているから、安心して乗ればよいのですが、どの電車でも安心して乗れるかといえば、そうでもなさそうです。そして、生まれた時にはすでに始発駅を発車してしまっているので、走りながら、あれこれ確かめて進まなければなりません。

 人生は片道切符ですから、間違えて乗車したり、乗り過ごしたり、乗り換え駅を行き過ぎてしまうと後戻りできないから、とてもややこしくなる。特急に乗ると、停車しない駅もあるから、どこで乗り換えるかを調べておかなければなりません。それでは各駅停車がよいのかといえば、ゆっくりすぎて困ることもある。快速に乗れば速く行けるけれど、風景や街の様子などは各駅停車のほうがよくわかるというものです。 

 これでよしと思って乗ったけれど、行き先を間違えてしまったということもあるでしょう。また、つい居眠りして、下車すべき駅を乗り過ごしてしまったとか、途中下車しなければいけないことや、乗り換えた方がよいということもあるでしょう。
 また、いつも安心安全ということはない。列車の事故があったり、風水害や地震などの天変地異により、停止してしまうこともある。駅での移動中に、つまずいたり転んだりすることもあるから、足下に注意しなければなりません。

 すでに走り始めた電車に乗ったのですが、乗り換え自由ですから、いつでも乗り換えができる。都会の喧噪を離れて、田園風景や山間地や海岸などの風光明媚な景色も楽しいから、ちょっと遠回りしてもよいのでしょう。途中下車してみると新しい出会いがあるかもしれません。だが、人生は片道切符ですから、もう一度元に戻って出直すということができません。そして、その片道切符には日は明記されてないが有効期限があります。

いつでも、今が出発点です

 新幹線のぞみ号が最速であるというけれど、実はもっと早い乗り物に乗ってしまっているのです。のぞみ号は時速300キロ、秒速では83メートルですが、地球号は一日24時間で一回りしていますから、秒速では473メートル、だからものすごく速い。「光陰は矢よりも速やかなり、身命は露よりも脆し」時の過ぎゆくのがとても速く、命は露の如く儚いから、生きているのは今という一瞬、刹那です。

 人が生きているというのはどの時をさすのかと、お釈迦さまが弟子に聞きました。ある弟子は、寝て朝、目覚めて、夜また眠るまでの自意識のはたらいている間だと、また食事をして、次に食事をいただくまでの間と答えた人もありました。一呼吸の間という人など、さまざまな答えがありました。でもお釈迦さまは、そうではないといわれました。そして、それは刹那であるといわれた。両手を打てばパンと音を発する、その65分の1、それが刹那だと、その刹那が生きているという間であるといわれました。

 人生においてつまずいたり、転けたり、そういうことは何度もあります。骨折や怪我であれば治るのですが、打ち所が悪ければ命まで失ってしまいます。それで、自分のことは自分で気配りをして生きていかねばなりません。
「人生に失敗がないと、人生を失敗する」、すなわち、つまずいたり、転んだりしても、次にまたそうならないように心がけたらよいのです。

 生きているのは今です。今といってもそれは瞬間です。車の運転をしているときに、携帯電話で話したり、スマートホンでメールしたりしていると、運転の注意がおろそかになり、大事故を起こしてしまいます。まさに一瞬に起こることです。
 生きているのはその一瞬・刹那の連続です。ところがその一瞬先が闇でわからない。生きているのは即今、刹那です。だから人生は、「いつでも、今が出発点です」。そして人生は片道切符ですが、必ず終着駅に着くから、安心して乗ればよいのでしょう。

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