2017年11月1日 第226話
             
 
だるまさん


   梁の武帝が達磨大師に問うた、
   「聖諦第一義(仏教の根本真実・最上最高の真理)とは何か」。
   達磨は答えた、「廓然無聖(からりとして聖なるものは無い)」。
   武帝が問うた、「朕の目の前の者は誰だ」。
   達磨が答えた、「識らぬ」。
   武帝はとりつく島がない。
   達磨は江を渡って少林寺に至り、九年間、面壁坐禅した。
                     従容録・第二則 達磨廓然


だるまさんがころんだ~

 10月は衆議院の解散による総選挙で日本中が揺れ動きました。必勝祈願の大きなダルマが置かれている選挙事務所がありました。当選すれば目が入り喜びのダルマとなるが、落選すると目が入らず、無念の様相となる。
 このように大願成就の守護神、招福の願掛けとして、また商売繁盛、開運出世の縁起物として、ダルマが飾られます。

 また起き上がりこぼしのダルマは、七転八起、倒れてもすぐに起き上がる不倒翁として、滑っても転んでも何度も起き上がり再起を目指し、立ち向かう勇気の象徴として、根性ダルマなどとも名付けられ、親しまれています。
 だが、「だるまさんがころんだ~」と、かくれんぼ遊びの子供達が大きな声を張り上げている光景は、今はもう見かけなくなりました。

 江戸中期以後より、坐禅姿をかたどったダルマ人形や、達磨画像が流行して、福ダルマの信仰がひろがりました。全身に赤い布で身を包んだ達磨さんは、日本人にはとてもなじみ深いものですが、禅僧であるらしいということぐらいで、一般にはその詳細は知られていないようです。

 達磨は中国の禅宗の初祖で、菩提達磨という。南天竺(南インド)の香至国の第三王子として生まれ、菩提多羅と名づけられた。般若多羅尊者のもとで印可を受けて、お釈迦樣から二十八代目の祖師菩提達磨となられた。
 菩提達磨は、教化別伝の正法眼蔵(さとりの真実)を伝えるために東土(中国)に来られた。後に二祖となられた慧可さまに正法眼蔵を伝えて中国で没したが、インドに帰ったともいわれています。

菩提達磨尊者

 道元禅師の「正法眼蔵・行持下」に、菩提達磨尊者のことが書きしるされています。それによると、菩提達磨が西方(インド)から東土(中国)に来られたのは、菩提達磨の師である般若多羅尊者の指示に従ったもので、南海を航海すること三年の年月を経て中国の広州に着く。梁代の普通八年(西暦五二七年)九月二十一日のことであったとされています。
(日本では古代国家か形成され、聖徳太子が摂政となられるのは、これより約70年後のことでした。)

 菩提達磨尊者が、仏法を伝えるために海路三年をかけて中国に行かれたのは、お釈迦さまの正法を伝えて、迷っている有情を救おうとする大慈悲心の行願によるものでした。菩提達磨尊者が東土(中国)に法を伝えたことにより、正法があまねく流布していきました。

 曹洞宗の寺院では、晋山式と同時に挙行される首座法戦式において、しばしば「従容録」の「達磨廓然の話」がとりあげられます。
 「従容録」は天童正覚(宏智(わんし)禅師)が公案百則を選んだ「宏智頌古百則」に、万松行秀が短評や解説を加えた著です。

 梁代の普通八年(五二七年)十月一日、武帝は使者に詔を持たせ達磨尊者を招聘した。菩提達磨尊者は梁の都であった金陵(現在の南京)に来て梁の武帝と相見しました。梁・西暦502~557)
 「達磨廓然の話」は、この時の梁の武帝と達磨大師との問答で、「従容録」には第二則に、臨済宗の根本聖典とされている「碧厳録」では第一則です。

達磨廓然の話

梁の武帝が菩提達磨尊者にたずねた、「朕は帝位について以来、寺を造り、写経をさせ、僧を得度させたことは一々数えきれないほどである、どんな功徳(善行の報い)があるのか」と。
達磨尊者が言った「いずれも無功徳である」。
武帝が言った「何で無功徳なのだ」。
達磨尊者が言った「これらはただの人間界、天上界の小さな果報であり、煩悩の原因となるだけである。形があるものには影があるようなもので、功徳があるように見えても、それは真実のものではない」。
武帝が言った「それでは、真の功徳とはどういうものか」。
達磨尊者が言った「みなともに仏と同じ淨らかな智慧(仏性)がそなわっているから、もとより空寂である。だからこのような功徳は、人間の意識で分別する問題でない」。

武帝がたずねた「聖諦第一義(仏教の根本真実・最上最高の真理)とはどういうことか」。
達磨尊者が言った「廓然無聖(中は何もなく、廓然、すなわち、がらんとして聖(ほとけ)もない」。
武帝が言った「朕に相見している者は何者か(おまえは西方から来た聖ではないのか)」。
達磨尊者が言った「不識(人間の意識で分別する問題でない)」。

 この問答によっても武帝は悟ることがなかったから、達磨尊者は帝がその器でないことを知りました。そういうわけで、この年の十月十九日、ひそかに揚子江の北(魏)へ行きました。
 その年の十一月二十三日、洛陽(魏の都)に到達した。嵩山の少林寺にかりずまいして、終日黙然として坐禅して過ごしました。魏の帝王もそういう聖者が自国にいることを知らなかったということでした。

 もし、菩提達磨が中国語に通じていなかったならば、こういう問答はできなかったであろう。道元禅師は「正法眼蔵・行持下」で、このように梁の武帝と菩提達磨尊者との問答をあらわしておられます。

面壁九年
 
 禅那・禅定というのは三学、八正道などの中に数えられる修行の一つで(戒定慧の三学の定学、八正道での正定)、いずれも習禅をさします。当時の中国においては、菩提達磨尊者を習禅の人としていたようです。習禅とは悟を目的として禅を学ぶことをいうが、達磨尊者の坐禅はそのままが悟りの境地であるから、習禅ではありません。道元禅師は「坐禅は習禅に非ず」と言われました。

 「初祖達磨大師は釈迦牟尼仏から二十八世に当たる嫡嗣(正当なあとつぎ)です。祖師が来られなかったならば、東地(中国)の衆生は正法を見聞することができなかったでしょう。達磨大師こそが正法を伝えた仏法の主人公です。そうであるのに史書を撰する者が達磨大師を習禅の列に入れたことは愚かで悲しむべきことである」と、道元禅師は言われました。

 達磨尊者は嵩山(少林寺)での坐禅修行が九年を経たことから、一般の人は壁観婆羅門(壁を見続けている西域の僧)といっていたようです。また、三蔵(経・律・論の三蔵を伝えた人)とか、経論師(経や論部の書の研究者)のように思われたことや、「禅宗といって、一派の法門をのべているが、経論師のいうことも同じだ」といわれたことについて、いずれもが、仏法をいいかげんに考える者達の言い分であると、道元禅師は「正法眼蔵・行持下」で述べています。

 達磨大師によってはじめて釈迦牟尼仏の正法が東国(中国)に伝えられました。修証一等すなわち坐禅(修)がそのまま悟(証)りであることを、壁に向かって九年もの間、自らが坐禅修行されたから、釈迦牟尼仏の正法が東国(中国)に定着したのです。
 西来の祖師達磨大師により伝えられた釈迦牟尼仏の正法は、慧可禅師に伝授され、後に如浄禅師を経て、道元禅師により我が国に伝えられました。釈迦牟尼仏の正法を日常生活で生かすことこそが、祖師方への慈恩に報いることになるでしょう。





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