2018年4月1日 第231話
             
不偸盗

      第二不偸盗、心境如々にして解脱の門開くなり。
                         教授戒文


鬱憤やるかたなし

 成人式の晴れ着を予約していたが、着れなかった。晴れ着のレンタル会社が経営にいきずまったようで、晴れ着を提供できなかったのです。契約者である新成人に事前に通知があって、晴れ着が準備できないことがわかっておれば、新成人もそれなりに対処できたのですが、被害者はとても悔しくて悲しかったことでしょう。悪質な詐欺行為とみなされて、成人の日の出来事でもあり社会問題になりました。

 格安で海外旅行を提供する旅行業者が、経営が成り立たなくなっていたのに、旅行の予約を止めなかったから、旅行を楽しみにしていた人は旅行に行けず、払ったお金も返却されず、悔しさと憎しみが残こりました。これも旅行業者が、倒産することが予想されているにもかかわらず、旅行契約の業務を継続したという、まさに悪質な詐欺行為でした。

 昨年の秋野菜の種まきの頃が高温であった、そしてその後は日照時間が足りなかったことから、大根や白菜が不作でした。今年の冬は雪が多くて野菜が高騰しました。そのせいか、あちらこちらで畑から野菜が盗まれた。農家の方からすれば丹精込めてつくった収穫前の野菜が盗まれるとは、鬱憤やるかたなしというところでしょう。

 ちょっとした心の緩みから、店頭の商品を万引きしてしまったと、著名な方の万引き報道が流れることがあります。また、最近の子どもや若者は、ゲーム感覚で万引きをするのかもしれません。見つからなければよいと、罪悪感を持ちながらも軽い気持ちで盗んでしまうようです。
 人の情けを逆手にとり、哀れな人にお慈悲の心でお恵みくださいと言わんばかりの寸借詐欺はよくありますが、最近では一人暮らしの高齢者が増えたので、それにともない言葉巧みに多額の金銭をだまし取るオレオレ詐欺が横行しています。

姿なき泥棒が暗躍しています

 最近では現金を支払いに用いることがしだいに少なくなりつつあり、カードやスマホ決済が多くなってきました。それにつれて姿なき泥棒が暗躍して、電子決済での新たな犯罪が生じています。
 他人の暗証番号を盗み取り、口座から金を引き出してしまうのです。国際的なネット犯罪も起きています。暗号通貨とか仮想通貨といわれるものがネット上で流通しています。それは決済通貨というより投機の対象にもなっていることから、膨大な額の電子貨幣がネット上で流通しています。現金に換算すると、五百億円を超えるネット上での窃盗事件も発生しました。

 他社の技術を盗んだり、著作権とか商標登録や特許権が侵害されるというのは近代社会の犯罪ですが、近年のネット社会では新たな犯罪が生じています。他人や他社のネットに侵入して、情報を盗み取る事件が多発しています。高度なセキュリテイーによって保護されているはずの軍事情報や、兵器の技術情報までもが盗まれている。ハッカーがパソコンに侵入して、情報を盗み取ったり、改ざんしたり、パソコン機能を麻痺させるという犯罪はネット社会の犯罪です。

 キャッシュレスの時代になれば空き巣狙いもなくなるかもしれませんが、当寺も窃盗被害にあっています。防犯灯や防犯カメラを設置しておけば、盗もうとする気持ちのある人も思いとどまって、窃盗することもなかったのかもしれません。もし勝手口に施錠しておれば、侵入できないから、窃盗もできなかったでしょうから、そういうスキをつくってしまったことが犯罪を誘い込んでしまったようです。

 姿なき泥棒であるネット犯罪は罪の意識が小さいかもしれませんが、犯罪であるかぎり、自身の心は安穏でないでしょう。泥棒家業ではリスクが大きくて、それではめしが食えないはずです。ところが労少なくして収穫を得るという妙味を覚えると、悪事がやめられなくなるのでしょう。再犯により刑務所暮らしが長くなって、人生を狂わせてしまったという人が増えています。防護ネットで獣から作物の被害は防げますが、人間の犯罪は、防犯カメラ、防犯灯、ネットガードでは防ぎきれないようです。

心境如々にして解脱の門開くなり

 花が咲けば蝶も蜂も蜜を吸いにやってくる。蝶や蜂には花の受粉を助けようという意図はなく、その味わいのみをとり、色香は損ないません。大自然においては盗むとか奪うということはなく、すべてがあるがまま、ありのままであるのに、人間は自然の中に楚々として咲いている山野草を見つけるとそれを採取してしまいます。天然記念物や希少生物までも盗み取ろうとします。

 「第二不偸盗、心境如々にして解脱の門開くなり。」これは盗みについて道元禅師の示された戒法です。人間には、盗んだり奪ったりという行為がありますが、盗みや略奪とまったく無関係であるところが大自然です。山や川、草木、風や雨、この大自然においては盗むということがまったくない。「心境如々にして解脱の門開くなり」で、森羅万象は、すべてが自ずからの世界だから、盗む盗まれる、などということが本来まったくないところです。

 戒法の教では、もし一本の針を盗み、一茎草を盗むとあなたのまわりが地震のようにぐらぐら揺れ動くとされています。すなわち、盗みをはたらくと自暴自棄になり、苦しみの深穴のどん底に落ちてしまうから、盗もうとする心がはたらいても、自制しなければいけません。たとえ盗みなどの不正を重ねていても、悔いあらためて、本来の自分を見失うことなきようにと教ています。

 「壁に耳あり障子に目あり」とか「おてんとうさまが見てござる」とは、ご先祖様に申し開きのできないような恥ずかしい行いは慎むべきであるということです。古来より日本人にはこうした倫理がはたらいていましたが、最近では希薄になってきたようです。
 スイスに旅行中の日本人が財布を落としたが、無事に本人のもとに帰って来たそうです。電車で忘れ物や落とし物をしても、拾得者が届けてくれることから、持ち主に返ってくるというのも日本の良さです。人々の良心が失われることなく、安心安全社会は健在だろうか。

日々懺悔して、自分の心を清らかにしておく

 人は仏の素地をもって生まれてきたから、本来人は悪しきことをしないものです。人は生まれながらに仏である、すなわち、悪しきことのできない人、善きことしかできない人に生まれてきたことになっています。けれども自分自身が仏であることに気づいていません。のみならず、仏である自分にさからってつまらない欲望のままに甘い誘惑に誘われて、ついつい悪しき道に入ってしまう弱い心も人は持ちあわせています。

 たとえ悪事によって幸せを得ようとしても、けっして幸せになれない、なぜならば人には仏心(ぶっしん)があるからです。かならず罪の意識にさいなまれて、あがき苦しみ続けることになり、けっきょくは、幸せになれないのです。しっかりとした信念を持っていないと、ややもすれば人は自分勝手なわがままなふるまいをして、自分自身が苦しんでしまう原因をつくってしまったり、悪しき道に流れてしまいます。

 欲望を自制できず、また誘惑に誘われて、悪事に流れてしまいそうな心のブレをたえず自分で軌道修正していかねばなりません、これが懺悔(さんげ)です。そして、自分の心を清めること、これが日々の生活という修行です。善き生き方を心がけよう、善き生き方に喜びを見いだそう、この思いが大切です。
 
 とかく悪しき道に流れてしまう弱い心の自分であっても、心がけしだいで変われます。日々懺悔して、自分の心を清めようとつとめればよいのです。そういう生き方の中に、悪しきことをしようとしてもできない自分、善きことを進んでやれる自分がしだいに培(つちか)われていきます。つまり仏さんらしい人間になっていくのです。

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