2018年5月1日 第232話 |
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仏法にかならず浣洗の法さだまれり。 あるひは身をあらひ、心をあらひ、足をあらひ、面をあらひ、 目をあらひ、口をあらひ、大小二行をあらひ、手をあらひ、 鉢盂(ほう)をあらひ、袈裟(けさ)をあらひ、頭をあらふ。 これらみな三世の諸仏諸祖の正法なり。【正法眼蔵・洗面】 |
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洗面とは心を清淨にすることです 朝起きたらまず歯を磨き顔を洗う、なにげない日常の習慣ですが、一日の始まりにはとても大切なことです。朝起きて洗面と歯磨きをしなければ、気持ちがシャキッとしないとか、人前に出られないという人があります。また美容には欠かせないことだという人もあるでしょうが、朝一番に洗面することで清潔が保たれ、気持ちが一新します。 今から800年前の鎌倉時代においては、朝の洗顔や歯磨きの習慣は日本人にはまだなかったようです。それで、道元禅師は修行の道場において、顔を洗うことや歯を磨くことなど、身を清めることは心を清めることであるから、修行僧に洗面や歯磨きをすることを習慣づけられました。 手を洗い、顔を洗い、頭を洗う、足を洗う、口を洗う、爪を切る、大小便のあとを洗う。身心を洗い清めて汚れを除き去ることは心を清淨にすることだから仏法の根本です。身を洗い心を洗い清めることによって、自分の住する環境も、ともに清淨になると、道元禅師は教えられました。 道元禅師は禅の修行において、歯磨や洗面をすることを大切な日常の修行とされました。また入浴や、便所での作法も示され、浴室と便所は坐禅堂とともに、声を発してはならないところ、三黙道場として、大切な修行の場とされました。それは身体を清めることが心を清めることにほかならないからです。 洗浄とは身心を洗い清めることで、自分を清めることが法界(真理の世界)を洗い、国土を洗い清めることにもなると教えられました。 |
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不汚染の自己を保ち続けることが修行です 不汚染(ふぜんな)とはよごれていない、清淨であるということです。人は生まれながらに不汚染であるとされています。洗面とは顔を洗い清めることですが、不汚染である自己をさらに洗うことで、不汚染を保つことになる。修行として洗面することの意味とは、そういうことだと道元禅師は教えられました。 お寺の境内や堂内を掃除することも同じことで、汚れを掃き清めることもさることながら、もともと汚れていない不汚染のところである境内や堂内を不汚染のままに保つことに意味があります。洗面も掃除も、そのままが不汚染の修行にほかなりません。 坐禅をしていると、身についている煩悩という垢がそぎ落とされます。だが、そぎ落としてもすぐにその後からまた新たな煩悩が生じてきます。これを次々とそぎ落とすことの連続が坐禅です。坐禅を続けているかぎり本来の自己である不汚染の自己、すなわち仏性が現れています。この仏性の現れがさとりです。 顔を洗うこと、身体を洗うこと、掃除をすることは、煩悩のそぎ落としで、心を清淨にする修行です。煩悩に汚染されていない、すなわち不汚染とは、もともと汚れていないという意味ですが、煩悩をそぎ落とすから不汚染が保たれます。不汚染の自己を保ち続けることが日々の修行です。 |
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坐禅は、不汚染の修証 人の悩み苦しみの根源は煩悩によるものです。煩悩とは身心を悩ますいっさいの欲望で、三毒すなわち貪瞋癡(むさぼり、いかり、おろかさ)の心のはたらきから生じるものです。人体は煩悩の入れ物のようなものですから、とめどなく煩悩は生まれます。 坐禅とは、動きを止めて、手を組み足を組み、姿勢を正して身を調え、呼吸を調え、自意識をはたらかすことなく、坐ることです。心が調えられると、おのずから三毒すなわち貪瞋癡が封じ込められることから、さまざまな煩悩が生じなくなります。たとえ煩悩が生じても、やがてその炎は消滅します。したがって坐禅するところ煩悩が滅却されて、悩みも苦しみもありません。 道元禅師は坐禅を証(さとり)るためのの手段だとされていません。なぜならば坐禅を行じていることがそのままに不汚染が保たれた本来の自己の現れ、すなわち証(さとり)であるからです。坐禅を行じることは、証(さとり)と一つのものであるとされています。 坐禅を行じているところ、煩悩という垢がそぎ落とされていますから一点のくもりもありません。煩悩という垢がそぎ落とされているかぎり、自己は不汚染です。修行とは身心の汚れである煩悩という垢をそぎ落とし、不断に不汚染を保つことです。煩悩という垢がそり落とされて不汚染が保たれていることを、本来の面目が現前するといい、これを証(さとり)といいます。坐禅を行じるのは自己であり、坐禅を行じる自己がそのままに証(さとり)です。したがって道元禅師は、坐禅は「不汚染の修証」であるといわれました。 |
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苦悩なき生き方とは、生きる姿勢を正すことです しかし四六時中坐禅をしているわけではないので、不汚染を保つことは、日常の一挙手一投足の修行そのものであるならば、三毒すなわち貪瞋癡(むさぼり、いかり、おろかさ)の働きに身を任せることのない生き方をこころがければよいのです。これが悩み苦しみのない生き方です。 人の悩み苦しみの姿は「ロダン作・考える人」の姿そのものです。それを続けていると悩みは解消されません。したがって、その姿をとらないことで、生き方の姿勢を変えるとよい。それには、①背筋を伸ばして姿勢を正しくする、②肩肘張らず、かまえず、こだわらず、自然体であること、③ゆっくりと吐く呼吸法をとる。これをワンセットで、いつでも、どこでもできるから、一日に何度もされるとよろしいです。 生き方の基本は生き方の姿勢ですから、椅子に腰掛けても、床に正座しても、坐禅の姿勢でも、いずれでもかまいませんから、少しの時間でも坐ると、精神がゆったりとして落ち着きます。これがお釈迦さまの説かれた生き方の基本です。 人は修行によって証(さとり)をうるのでなく、さとりの上にさらに修行します。もともと汚れていないものをみがくことですから、修行と証さとりとは一つのものです。「不汚染の修証」このことを道元禅師はひたすら坐禅すること、只管打坐(しかんたざ)といわれました。
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