2018年8月1日 第235話 |
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第五不酤酒。 教授戒文 |
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酒は涙か、ため息か 藩主黒田長政は、福島正則のところに年賀の使者として、家来の母里太兵衛友信(もりたへいとものぶ)を遣わしました。酒好きの福島正則は杯をみごとに飲み干したとして、豊臣秀吉から賜った日本一の槍(日本号)を褒美として、母里太兵衛友信にあたえた。黒田武士として名高い母里太兵衛友信は後藤又兵衛と並んで、黒田藩きっての大酒豪であり、槍の名手でもあった。 「酒は呑め呑め呑むならば 日の本一のこの槍を 呑みとるほどに呑むならば これぞまことの黒田武士」。この黒田節は酒席でよく歌われる民謡です。 しんみりと飲むうちに、口すさぶ歌があります。「酒は涙かため息か、こころのうさの捨てどころ、・・・酒は涙かため息か、悲しい恋の捨てどころ」これは高橋掬太郎作詞、古賀政男作曲で、藤山一郎の歌唱による昭和の名曲です。 酒がはいると憂いが増します。 「ひとり酒場で 飲む酒は 別れ涙の 味がする 飲んで棄てたい 面影が 飲めばグラスに また浮ぶ」この「悲しい酒」は、石本美由紀作詞、古賀政男作曲で、美空ひばりが歌いました。酒は歌をさそい、歌がまた酒をすすめます。 河島英五の「酒と泪と男と女」の歌詞に、「忘れてしまいたいことや、どうしようもない寂しさに、包まれたときに男は酒を飲むのでしょう、飲んで飲んで、飲まれて飲んで、飲んで飲みつぶれて眠るまで飲んで、やがて男は静かに眠るのでしょう」とあります。うれしいときも、悲しいときにも、人は酒を飲み歌います。 |
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人はじめに酒を飲む、やがて酒、人を飲む、ついに酒、酒を飲む、 故人を偲んで飲む酒、祝いの酒、社寺に詣でていただく御神酒、寒さをしのぐ酒、寂しさを紛らわす酒、友や人との付き合い酒、喜びの酒、元気付けの酒、人はよく酒を飲みます。 酒ぎらいの人、酒が好きでない人のことを下戸といい、酒好きを上戸といいます。酒好きであろうが酒ぎらいであろうが、ことあるごとに人は酒席に向き合うことが多いようです。 酒は人の性格をあらわにします。泣き上戸があれば、陽気になっての笑い上戸、愚痴や他人の人物評価を繰り返す人もあります。深酒を重ねていると酒で体調を崩してしまいます。酒好きが過ぎると財を失うことにもなる。酒がすすむと大声を出したり怒ったり、人と争う人もあり、厳に慎むべきことです。 「白玉の歯にしみとほる秋の夜の酒はしずかに飲むべかりけり」 「それほどにうまきかと人のとひたらばなんと答へむこの酒の味」 旅と酒の歌人であった若山牧水の歌です。だが若山牧水は、酒で寿命をちぢめてしまった。酒を好んだ若山牧水も過ぎたるは健康に悪しだったのです。 「一杯は人、酒を飲む。二杯は酒、人を飲む。三杯は酒、酒を飲む。」 酒で自分を見失うことなく、楽しく味わい上手に酒は飲むべしということです。 |
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不許葷酒入山門 寺の山門付近で、「 葷は辛味や臭味のある野菜で五葷、五辛(ごしん)ともいい、ニラ、ネギ、ニンニク、ラッキョウ、ショウガの類。その臭気や、それを食べることによって生ずる色欲や怒りの心を避けるため、仏教では食べることが禁じられた。中国、日本では鳥獣魚肉などをも意味します。 酒類とは、日本酒、ビール・ワインなどの醸造酒。焼酎・ウイスキーなどの蒸留酒。それに梅酒などの混成酒などさまざまです。日本酒は、米、米麹、水を発酵させて造られる日本古来からの醸造酒です。 米、麹糀、水、熱でつくられる酒自体に罪はないのですが、酒は飲む者によって、いろいろなちがいが生じてしまうことから、寺では「不許葷酒入山門」と訓戒しています。 酒はともすれば自分の心を見失わせてしまうので、修行者は飲むことを禁止された。それで寺では、山門の前に「不許葷酒入山門」(葷酒山門に入るを許さず)の石碑(戒壇(かいだん)石、禁牌(きんぱい)石、結界(けっかい)石ともいう)を建てて、僧侶の戒めとしています。 |
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無明の酒に酔うなかれ 「無明」とは迷いのことで、無明の酒に酔うなかれということですが、人はついつい油断すると、心の迷いの酒に酔ってしまいがちです。無明の酒に酔うとは、酒のみならず、悪い思想や変な宗教にはまり邪悪な行動に走ることをも含みます。 いただいたこの命を酒や薬物や賭け事に溺れさせてはならない。また、悪い思想や宗教に溺れて、身を滅ぼす愚かな生き方をすべきでない。これが不酤酒の意味するところです。常に心の鏡が曇らぬように垢つかぬように、無垢清淨の心を保ち、自己を見失ってはいけないのです。 酒を飲むうちに酒に溺れてしまい、酒が人を飲むようになると、やがて酒が酒を飲み、自分自身を見失ってしまう。酒は自他ともに楽しくなるように飲むべきであり、酒を楽しむことで生活に潤いと励みが生じるならば、酒が人生のスパイスとして生きてくるというものです。酒を飲むことの心得とすべきでしょう。 生まれながらに本来清淨である 「未将来も侵さしむることなかれ」とは、無明の酒を飲むことなかれということで、これを慎めば智慧明らかなり、すなわち、「まさにこれ大明なり」で、無垢清淨である本来の自己、すなわち不汚染を保つことができるということです。
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