2018年10月1日 第237話 |
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幸せの実感 | ||
摂律儀戒。諸仏法律の窟宅とする所なり、 諸仏法律の根源とする所なり。 摂善法戒。三藐三菩提の法、能行所行の道なり。 摂衆生戒。凡を越え、聖を越え、自を度し他を度するなり。 これを三聚淨戒と名ずく。 道元禅師・教授戒文 |
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摂律儀戒。諸仏法律の窟宅とする所なり、諸仏法律の根源とする所なり。 今年もいくつかの台風が日本列島に上陸しました。21号台風は強い勢力で上陸して近畿地方を北上しました。ものすごい風が吹き巨木が倒れました。屋根の瓦が吹き飛び、走行している大型トラックが横転しました。電柱が倒れ、広域で長時間の停電が続きました。生活が電気で成り立っている現代では、交通機関が不通になり、信号機が働かず交通整理ができず、電話が通じない、家庭では台所の電気製品が稼働しなくなりました。 人間の果てしなき欲望が、わがままかってにまかり通っている日常を、時として自然は猛威をふるって打ち砕いてしまいます。大切な財産が消失し、人命が奪われてしまう悲哀を受けとめざるをえないのです。 台風の襲来、豪雨豪雪、地震津波など、天変地異に遭うと人は自然の猛威に恐れおののき、あらためて大自然に畏敬の念をいだきます。そして人間の思慮分別のおよぶところのものでない、それが大自然であることを再認識します。 「我と大地有情と同時に成道す、山川草木悉皆成仏(山川草木悉有仏性)」 宇宙、地球、私たちの住むこの世界では、現前の森羅万象のことごとくが露堂々、すなわち少しもかくすところなく、真実真理を露呈しています。私たちも同様であると、そのことをお釈迦さまは悟られました。森羅万象がそのままに真実真理の現れですから、うそ偽りもなければ、善悪などと分別する余地もありません。しかし多くの現代人は、このことに気をとめようとしないようです。 森羅万象がそのままに真実真理の現れで、悉有仏性であるから、森羅万象にうそ偽りはなく、善悪などと分別することも、もとよりその必要もない。森羅万象が悉有仏性だから、私たちも、生まれながらに仏性がそなわっています。 「この法は、人人の分上にゆたかにそなわりといへども、いまだ修せざるにはあらわれず、証せざるにはうることなし」(正法眼蔵弁道話)と道元禅師がお示しです。 人には生まれながらに仏性がそなわっているから、修行するところに証(さとり)が現れます。自己に仏性がそなわっていることを心得ておれば、悪行をはたらくことはない。自己にそなわった仏性に違わぬように生きることが摂律儀戒です。 |
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摂善法戒。三藐三菩提の法、能行所行の道なり。 この世とは不汚染の世界です。不汚染とは悟りそのもの、真実そのものだから一点の迷いの雲もない。不汚染の世界に生まれ生きている私たちも不汚染そのものですが、時には月に群雲の如しで、煩悩が不汚染の心を曇らせ、邪悪な道に走ってしまいます。 「三つの子が次第に智慧つきて、仏に遠くなりにけり」というが如しで、赤子のときは煩悩なき仏で生まれてきたけれど、成長するにつれて煩悩がはたらくようになります。煩悩のおもむくままに行動すれば、悩み苦しみのるつぼに落ちてしまいます。それで人は懺悔して、自己の本性を取り戻そうとします。 目を開いて世界を見ると、その世界の中心に自己自身がある。その自己のさらに奥の中心に宇宙そのものがある。それがほんとうの自己自身で、真実人体です。自己の本性である仏性とは、人間に本来具わる自性清淨心(仏心)です。自性清淨心(仏心)に満たされた真実人体が自己です。煩悩である我執、慢心が除かれたところに仏性が現れます。 人は悩みも苦しみもない、生き死にを超えた安楽の境地を得ることを願いとします。安楽の境地とは普遍的な真理を我が身に実現することで、これを仏教では悟りという。そして普遍的真理に自己を同じくして生きることを修行といいます。 仏道を学ぶというは、自己を学ぶことであり、心身を脱落せしめるとは、自己というこだわり、とらわれ、そのことごとくをすてることです。すてることで、ありのままの真実である悟りが現れる。それを万法に証せらるるという。万法に証せらるるとは、悟らされるということです。万法に証せられ、善行に生きることを摂善法戒といいます。 |
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摂衆生戒。凡を越え、聖を越え、自を度し他を度するなり。 悪しきことをしないで善きことをするということは、誰もがよくわかっていますが、実行し続けるとなると、なかなかむつかしいことです。人は悪をなさず善のみで通そうとしても、どこかにひそんでいる悪の心が揺れ動いてしまいます。けれども人には生まれながらに自性清淨心(仏心)がそなわっていますから、安らいだ穏やかな心の状態が保たれれば、善悪の認識ができるのです。 たとえ悪行を重ねたとしても、心おだやかにして、自己の悪行を懺悔して、心を清淨にすれば悪しきことをしないで善きことを行うという願いがよびおこされてきます。この世は共生きの世界ですから、慈愛の心で他を幸せにしようとする善行に励んでいると、喜びを感じます。 人も生きとし生けるものことごとくが共生きの世界に生まれ、共生きの世界に生きています。共生きの世界では自己中心の生き方をしていますと、生きずらさを感じて悩み苦しみます。なぜならば共生き世界では他を幸せにという生き方、利生、 この世はすべてが関係し合って、生かしあっている共生きの世界ですから、一つの存在が他の存在を存在たらしめています。だから、共生き世界における生死とは、この世に必要だから生まれて、不必要であれば滅します。だから、生まれてきたからには、自分がこの世にとって必要な生き方をしなければなりません。この世に必要な生き方ができておれば、他から必要とされ、他から感謝され、他から尊敬されます。 |
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これを三聚淨戒と名ずく。 善であるのか悪であるのかというのは、人間が主客を分けてものごとをとらえようとする分別によるものです。もとより森羅万象にうそいつわりなどないのですから、善悪などと分別できません。それだから、人の行為として、悪がなされようと、善がなされようと、森羅万象はことごとく真実真理を露呈しています。 「自己をはこびて万法を修証するを迷いとす、万法すすみて自己を修証するはさとりなり」(正法眼蔵現成公案)道元禅師はこのように示しておられます。自己を先にたてて善悪を分別して、万法の真実を明らかにしょうとすれば迷いにはまり込んでしまいます。けれども人には仏性(自性清淨心)がそなわっているから、自己は煩悩の入れ物であるが、心を空しくすれば、万法の側から自己が照らし出されて、万法(真実真理)が我が身に実現します。これがさとりです。 万法すなわち、さとり(証)を自己の上に実現することを、仏に成るといいます。そのさとり(証)を保つことが修行です。修行とさとり(証)は、日々の生き方そのものです。 人が成熟するとは最高の人格に到達することで、仏道ではそれを仏に成るという。あるいは仏にならずとも、それぞれの分野で世のため人のためにつくせたら、そういう生き方を続けていけば、仏に近づくと教えています。摂律儀戒・摂善法戒・摂衆生戒の実践により、仏に成る、仏に近づくということで、これを三聚淨戒といいます。 自分が幸せになろうと欲するならば、他をも幸せにしない限り自分は幸せになれない。日々の生活において、他を幸せにの願いを持続するところ、おのずと幸福度は高まる。利他の生き方が自然になされれば、人は他から、世の中から、あなたが必要ですといわれ、その必要を満たす生き方がなされておれば、他から、世の中から感謝され、そして尊敬されるでしょう。三聚淨戒の実践によって、人は生き甲斐を感じ、ほんとうの幸せが実感できるのです。
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