2019年1月1日 第240話
             
不慳法財(ふけんほうざい)

   第八不慳法財
     一句一偈万象百草なり。一法一証諸仏諸祖なり。
     従来未だかって惜しまざるなり。 教授戒文 

一文惜しみの百知らず

 情け深い母親が息子の窮地を救おうとしてオレオレ詐欺にひっかかり、老いの生活のためにと蓄えていた虎の子をなくしてしまった。これはお気の毒な話しです。
 ところが、「小利大損」という言葉がありますが、欲深い母親が箪笥預金では増えないからと、巧妙な話しにだまされて投資の誘いにのせられ、お金をすっかり失ってしまったという話しもあります。このご時世ではこういう事件が後を絶ちません。

 嫁いだ娘さんが家を建てることになり、実家の母親に援助を申し出ましたが、母親は娘のおねだりに知らぬ顔をして、出し惜しみしていたところ、蓄えていたヘソクリを泥棒さんにすっかり盗まれてしまったという。こんなことだったら娘の願いに応じておけばよかったのです。そのことが原因で娘と実家とは疎遠になってしまったそうです。
 目先の損得ばかりしか頭にない愚かさを、「一文惜しみの百知らず」といいます。わずかの金銭を出し惜しんで、後で大損をすることに気づかないという意味です。

 物惜しみする人のことを吝嗇家(りんしょくか)といいます。ケチの名人が吝嗇の極意を教わりたいという男に、木の枝にぶら下がるように命じた。「よし、片手を放せ」というので言われた通りにすると、今度はもう一方の指を一つずつ開けという。言われる通りに小指、紅指、中指と開いていって、とうとう人差し指と親指だけになったが、これも放せと命じられました。「これを放したら落ちます」といったら、人差し指と親指を丸めて、「そうだ、これだけは(お金)放すな」といった。これは落語の小咄です。

 お金が貯まる一番の方法とは、入ったお金は出さなければよいのです。息子は、老いた母親が喜ぶだろうと、行くたびに金子をあげました、喜んで受けとってくれるから、いつもそうしていました。でも自分で欲しいものを買いに行けなくなってしまったから、もらったお金はベットの布団の下に全部残されていました。その母親は今はもういませんが、喜んでくれたあの笑顔は忘れられません。その金は孫の結婚祝いになったそうです。 

生きているうちに、お金は上手に使いたいものです

 金銭を使うことを嫌い、快適さや生活する上で必要なものの一部を犠牲にしてでも、金銭や其の他の財産を溜め込もうとするような人物のことを、ケチな人という。けちる、しぶるということを「一毛不抜(いちもうふばつ)」といいます。毛一本も抜かないという意から、極端に物惜しみすること、利己的な人、けちな人のことをさしますが、関西言葉では「がめついやつ」といいます。

 懐に入れたものならば舌をも出さないという、「がめついやつ」はどこにでもいるもので、落語の小咄にこんなものがあります。商店の内壁に釘を打つことになり、主人は丁稚の定吉に、隣家からカナヅチを借りてくるように銘じるが、定吉は手ぶらで帰ってきた。隣家の主に「打つのは竹の釘か、金釘か」と聞かれ、定吉が金釘だ、と答えると、「金と金(金属同士)がぶつかるとカナヅチがすり減る」といって貸してくれなかったという。主人は隣人のケチぶりにあきれ果てて、「あんな奴からもう借りるな。うちのカナヅチを使おう」といった。という話しです。

 海外のメデイアはCEOの報酬とは高額なものだと報じていますが、日産自動車のCEOゴーンさんは高額な報酬を受けたから失脚したのでしょうか。
 日本では巨万の富を得た豪商は水路を開いたり、鉄道を建設したり財を惜しみなく社寺に寄付したり、スポンサーとして芸術家を支援して作品を世に出させ、また美術品を収集し美術館を建て、後世の人々の鑑賞を可能にしました。近年では財団を創設して科学医療文化の発展に寄与した人も多いです。もしゴーンさんに、私財を世のために惜しみなく施すという善行があれば、私利私欲の塊のような印象もなく、リストラされて生活の窮地に立たされた多くの元日産の社員からも尊敬されたでしょう。

 「一杯のかけ蕎麦」という話があります。大晦日に母と子はあたたかい一杯の蕎麦で空腹を満たすことができました。蕎麦屋の親父さんも、そのうれしそうな親子の顔に心温まるものがあり、お代にも勝るものを得ることができました。
 「時そば」という話しの方は、お勘定をする時に、お代を一文誤魔化せた客と、お代を余分に払うはめになった客の話ですが、いずれの客も、なんとなく腹のおさまりの悪さを感じたでしょう。
 三つかけばお金が貯まるそうで、恥をかいて、義理を欠いて、汗をかけばお金は貯まるということです。入った金は舌でも出したくないという人がいますが、死んでしまえば出し惜しみもできないから、生きているうちに、お金は上手に使いたいものです。

この世は満たされており、余ることも足りぬということもなし

 お釈迦樣は菩提樹のもとでおさとりになられました。天上の星々も、地上の山川草木も、ことごとくがありのままに、けちることもなく、惜しむこともなくすべてを露呈している。一点のくもりもなく欠けることもなく、余ることも足りぬということもないから、真実真理の現れそのものであるとさとられた。

 般若心経に、そのさとりを阿耨多羅三藐三菩提といい、「不生不滅、不垢不淨、不増不減」とあります。けちることもなく、惜しむこともなく、すべてが露呈しているから、余ることも足りぬということもなく、不汚染であるから無垢清淨である。人は、このありのままの世界を、あるがままに観ることができないから、悩み苦しんでしまいます。

 京都の竜安寺に吾唯足知という手水鉢がありますが、少欲知足をあらわしたものとされています。また永平寺の入り口に「杓底一残水、汲流千億人」と書かれた門柱があります。少欲知足の心を忘れずに、あたえよう物でも心でもという利他の生き方を常に心得るべしという道元禅師の言葉です。
 この世はことごとくが満たされており、余ることなく足りぬこともない。したがって、分かち合えば足りるのに奪いあえば足らぬ。欲深きものは足らぬと悩むけれど、足ることを知るものには悩みがない。

 ありのままにその姿をさらしている天上の星々も地上の山川草木も、森羅万象はことごとくが関係し合って、互いに生かし合っています。人のみならず、生きとし生けるものすべても、生かされている命をお互いに生かし合っている。したがってこの世で快適な生き方を望むのであれば、生かし合いの生き方でなければ、生き苦しくなってしまいます。

すべてが宇宙からの預かり物だから、本来無一物です

 天地のお陰をいただいて、生きとし生けるものすべてが生かされているから、生きていけるのでしょう。したがって、自己中心に、もの惜しみしたり、貪ったりすると、生き苦しさを感じることになります。
 不慳とは惜しまず、貪らずということです。法(仏法)も財なり財(物や金)も法なりで、法も財も、すなわち物でも心でも、生かし合いの世界ですから、けちらず惜しまず、施し合えということです。

 「一句一偈万象百草なり。一法一証諸仏諸祖なり」とは、山川草木はありのままにその姿をさらし、個々それぞれに異なる形相をしているが、すべて宇宙からの預かり物で、これを仏という。おのれのものだと思いこんでいる自分の命だって宇宙からの預かり物です。ことごとくが宇宙からの預かり物だから、無尽蔵の仏です。したがって、個々人が執着するような一物も存在していないから、本来無一物です。

 施す(布施)とは生かし合いの善行で、与えるものと受けとるものとの間柄のことですが、けちることなく、惜しむことなく、貪ることなく、損を吸って得を吐く、これが布施行です。儲けという字は、信という字と者という字を合わせたもので、信者とは顧客です。企業は経営活動として顧客に良い商品やサービスを提供します。客心適合しておれば、顧客はその企業を必要とし、顧客から感謝され、尊敬されるから、そこに自ずから儲けがついてきます。企業は顧客からご利益(ごりやく)というご加護をいただく、それが利益(りえき)だから企業活動が継続できるのです。

 あなたの命も、私の命も宇宙からの預かり物で、生かされ、生かし合っている命です。けれども人は執着心や分別心をはたらかせてしまうから、宇宙からの預かり物などと思わないで、自己の所有物だと思っています。心静かに原点に立ちかえれば、すべてが宇宙からの預かり物だから、執着するような一物も存在していないことに気がつくでしょう。肩肘張らずこだわらず、いつも自然体で生きれば、けちることも、惜しむこともなく、生かしきるという生き方ができそうです。

「鐘の音」は20年になりました、皆様のご法愛に感謝申し上げます

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