2019年4月1日 第243話
             
さとりの修行

    仏性の道理は、仏性は成仏よりさきに具足せるにあらず、
    成仏よりのちに具足するなり。
    仏性かならず成仏と同参するなり。 正法眼蔵仏性

    

悉有仏性(しつうぶつしよう)

 お釈迦樣は2500年前にインドでお生まれになりました。4月8日はお釈迦樣のお誕生日です。世界中のお寺では花まつりとして、お釈迦樣のお誕生を祝います。

 お釈迦樣は二十九歳になられた頃、お悩みがもっとも深刻な状態でした。人はどうして悩み苦しみながら生きていかなければならないのであろうか。人には生老病死のみならずさまざまな悩み苦しみがあり、戦争もあり、天変地異の災害もある。ことごとくが悩み苦しみの連続である。この悩み苦しみを脱却できたならば、おだやかな安らかな日々を生きることができる。自分がこの苦悩を克服できたならば、人々の悩み苦しみも救うことができるであろう。その道を求めようと、一大決心をされたお釈迦樣は、妻子も地位も財産も捨てて出家されました。

 だが、その後のお釈迦樣は、さらなる悩み苦しみの日々でした。その悩み苦しみは苦行を重ねるごとに深くなっていきました。お釈迦樣の苦行は六年も続きました。痩せこけて、あばら骨があらわでした。時には意識がもうろうとする、そういう状態になってしまわれたのです。ナイランジャナー川の畔にたどり着かれた頃には、もう歩けない状態であったと伝えられています。

 幸いに村の娘さんでスジャータというお方から、乳粥をふるまわれ、しだいに体力を回復していかれました。これまで六年にもわたり自分がしてきた修行の日々はいったい何であったのだろうかと振り返られたとき、このような苦行を続けても、けっして悩み苦しみからのがれられない。そう思われたお釈迦樣は苦行を止めブッダガヤの大きな菩提樹の下で坐禅に入られました。

 坐禅を続けておられたお釈迦樣は、夜が明けはじめた東の空を仰がれました。そこには明星が輝いていました。夜の明けるのにともない、小鳥たちが一斉にさえずり始めました。まわりの木々のざわめきも、天空の雲の動きも、吹き抜ける風さえも心地よい。これまでに感じたことのない感動に、お釈迦樣は我をわすれて坐っておられた。味わったことのない喜びの気持ちがお釈迦樣の全身にみなぎっていたのです。

 「我と大地と有情と同時に成道(じょうどう)す、山川草木悉皆成仏(しっかいじょうぶつ)」そして、「我と大地と有情と同時に現成(げんじよう)す、山川草木悉有仏性(しつうぶつしよう)」と心で叫ばれました。この感動がお釈迦樣のおさとり、すなわち成道でした。
 我と生きとし生けるもの、山川草木も、星々もことごとくが真実をあらわしている、ことごとくが真実の現れである。その真実の有り体をそのままに受けとめて、真実と一つになられたのです。

さとりの修行

 お釈迦樣の生き方は、この時から大きく変わっていきました。すなわち、苦行の六年間とは全く異なる生き方が始まりました。それは、さとり(真理)を日々に実践する生き方です。すなわち、日々がさとりの修行であり、修行というさとりの日々でした。

 さとりは法(真実の道理)として説かれました。お釈迦樣の説かれた法をよりどころとして、お釈迦樣と生活を共にする修行者がしだいに増えていきました。すなわち僧が一箇所で生活し修行する集団である僧伽(そうぎや)(サンガ)ができていったのです。

 僧のみならず悩み苦しむ人々が、お釈迦樣のところに来るようになりました。どうすれば悩み苦しみからのがれられて、安楽な生き方ができるようになるのでしょうか。今の苦しみからのがれられないならば、いっそう死んでしまえば楽になるのだが、死にきれない。悩みを克復して、どうすれば生きていこうという気持ちになれるのか。多くの人々が悩みからの脱却の道をもとめて、お釈迦樣のところに来られたのです。

 おさとりになられた三十六歳の時から、八十歳で亡くなられるまで、お釈迦様のさとりの修行は続きました。そして亡くなられるその間際まで、人々の苦悩に寄りそい、そして四衆への説法を続けられました。
 二千五百年を経た今日でも、お釈迦樣と同じ生き方をされている人々によって、お釈迦樣の教は活き活きとして伝えられ、その教によって、多くの人々が悩み苦しみから救われています。

身心脱落、脱落身心

 お釈迦樣のご出家の動機は、生老病死をはじめさまざまな苦悩から脱却する道を求めるということでした。お釈迦樣の没後千七百年を経た当時の日本には、比叡山に延暦寺という素晴らしい修行道場が開設されていました。幼少にしてご両親を亡くされた道元禅師は比叡山延暦寺に上山され、十三歳で得度して仏門にお入りになられました。

 道元禅師は比叡山でのご修行において、どうしても解けない疑問がうまれました。それは、お釈迦樣が「悉有仏性・悉皆成仏」と教えられたことについてです。人には仏性がそなわっており、生まれながらに仏であるという。仏であるのならば、どうして修行しなければならないのであろうか。仏として生まれてきたのであれば、そのままに仏であるから、修行しなくとも仏である。なぜ修行をしなければならないのか。その意味が理解できなかったのです。

 そのことに答えてくださるであろう建仁寺の栄西禅師はすでにこの世にはいらっしゃらない、けれど、比叡山を下りられた道元禅師は建仁寺に入山され、明全和尚のもとで修行を続けられました。
 修行の導きをしてくださる明全和尚が、中国に行かれることになったので、道元禅師も明全和尚について海を渡ることになりました。そして、如淨禅師に出会うことができたのです。

 如淨禅師のもとで、身心脱落、脱落身心のさとりを体得され、かねてよりの疑問である「仏がどうして修行をするのか」の疑問が解けたのでした。
 人には仏性という本来の面目がそなわっているから、仏性が現れ出る生き方をすればよい、その生き方が修行です。自己を仏として生かしていく、その修行がそのままさとりであり、さとりの修行であるということです.。

坐禅は習禅に非ず

 人は本来仏であるが、時には仏らしからぬ自分になってしまう。煩悩により仏らしくない自分になるのです。したがって常に煩悩のそぎ落としをしなければ、次々と煩悩の炎が燃え上がってしまう。煩悩の炎が燃えあがればそれを滅除する。煩悩の炎が燃え上がらぬように心配りを絶やさない。それが日常の修行という生き方である。

 したがって修行はそのままがさとりであり、さとりがそのまま修行である。.さとりと修行は一つのものである。すなわち修証一等を理解することができたから、「人は生まれながらに仏であるのに、どうして修行をするのか」、この疑問を解くことができたのです。道元禅師の教はこの修証一等にあります。
 
 達磨)大師がインドから中国に渡られた。どうして達磨大師が中国に行かれたのかということですが、中国に来られた達磨大師は習禅者だといわれました。習禅とは、坐禅をさとりの手段として、坐禅修行を積み重ねていくことでさとりに至る。さとりに至るためには修行の段階を上げていく。修行の階段を上がるようなもので、そのうちさとりに到達する。坐禅はさとりに至る手段であり、さとりへの経路であると、当寺の中国の人々はそのように受けとめていたようです。これが習禅であり、達磨大師も習禅者だとみなされました。

 坐禅は習禅に非ずで、坐禅修行がそのままさとり(証)であり、修証一等であるとする、正伝の仏法を達磨大師は中国にお伝えになられたのです。達磨大師が中国に入られた頃は、中国では仏教が各地に広まり、寺院が建立され、多くの僧侶が修行していました。仏教が盛んであったけれど、正伝の仏法はなかったのです。達磨大師が来られたことによって、中国にお釈迦樣のほんとうの教が根付くことになりました。そしてその法は受け嗣がれ、如淨(によじよう)禅師に出会われたことで、道元禅師も、お釈迦樣と同じさとりを体得されたのです。

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