2019年5月1日 第244話 |
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あるいは衆生といい、有情といい、群生といい、 群類というは、衆生なり、群有なり。 すなわち悉有は仏性なり、悉有の一悉を衆生という。 正当恁麼時(しようとういんもじ)は、 衆生の内外すなわち仏性の悉有なり。 「正法眼蔵仏性」 |
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仏性というエネルギー ローソクは燈火用のものです。蝋という燃える物質があり、それにマッチやライターで火を起こしローソクにその火を移すとローソクは燃える。蝋という燃える物質が尽きるまで燃え続けます。マッチやライターは、それを発火させる力を加えれば燃えます。燃える物質であっても、発火するパワーの働きかけがなければ燃えません。また、燃える性格を持った物質が存在していても、酸素や、そして燃える条件が整わなければ燃焼しません。 ローソクは燃えなければ灯明になりません。燃えるという性質がもとよりそなわっているけれども、発火させる力が加わらなければローソクは燃焼して光を放たないのです。 電灯も同じことで、白熱球もあれば蛍光灯、LEDまでありますが、そこに電流が通じなければ光を放つことはありません。電流が通じているかぎり電球は光を放っています。 太陽が燃えているから、そのエネルギーが地球に届き、私たちは日光という明るさと熱という暖かさを感じます。そして地球の自転や引力など様々な要素が重なって気圧の差が生じ、大気が動き、気象が変化します。大気の動きで静電気が発生し、放電されて雷が起こります。稲光や音を発する雷は、空中に存在するプラスとマイナスの電子がぶつかり合うことで生じます。地球の地下深きところの物質に重力が作用して高温となり、地球の中核として高熱のマグマが存在しています。そのエネルギーが地殻を動かし大地の隆起や陥没を、また地震を引き起します。その地震の揺れが海水を動かすと津波が発生します。 お釈迦様の生きられた二千五百年前では、こうした自然の現象はまだ科学的に解明されていませんでした。明星の輝きを目にされたとき、お釈迦様は自然のありさまがそのままに、仏性(そなわりたる真実)の発露であると気づかれ「我と有情と大地と同時に現成す、山川草木悉有仏性」と心の叫びを発せられた。お釈迦様のおさとりです。 |
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仏性の完全燃焼がさとり、不完全燃焼は迷い 膨張している宇宙が時間であり、膨張している宇宙が存在です。この時間と存在が真実であり、時間と存在の現れ出たるものことごとくが仏です。性とは宇宙の始まりから宇宙に終わりがあるならば、その終焉に至るまで変わらない真実のことです。 生きとし生けるもの、森羅万象も、存在するものことごとくに仏性がそなわっています。天の星々も地上の山川草木も、そなわりたる真実である仏性がさらけ出て存在しているのです。その存在が仏ですから、天の星々も地上の山川草木も、みなことごとく仏です。人にも生まれながらに仏性がそなわっていますから、人は生まれながらに仏です。 仏性とは、燃えたり光を放ったりするエネルギーのようなものかもしれません。仏性があらわになっていることを仏性が完全燃焼していることに喩えれば、仏性が完全燃焼しているのがさとりであり、さとれしものが仏です。そして完全燃焼させることが修行です。もし不完全燃焼であれば、それは煩悩が燃えているからで、それが迷いです。 エネルギーとは物体が仕事をなしうる力の量のことで、精力、元気、活動力そのものです。雑じりけのないのが仏性というエネルギーですが、時には変質してしまうことがあります。それは貪欲という不純物によるからです。 仏性を変質させてしまうのが欲です。その欲が煩悩となり、盛んに燃え上がると冷静さを失ってしまい、悪くすると悩み苦しみのるつぼに転落してしまう。もしその程度が深ければ、なかなかそこから抜け出せなくなってしまい、深刻な悩みが長く続くと身心の疾患を誘発してしまいます。欲が仏性を変質させてしまい、不完全燃焼させてしまうのです。煩悩が燃えあがり仏性が不完全燃焼するから人は迷い、悩み苦しみにおちいることになるのです。 |
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不染汚を保つ 欲は仏性を変質させ煩悩の炎となり、悩み苦しみをもたらすことになるけれど、生きる力を生み出すもとにもなるから、欲は諸刃の剣のようなものかもしれません。それで欲は全く悪いものでないけれど、度が過ぎると悪業となる。業とは生きざまが身につきしたがうことですから、悪行が己の身につくと悪業となる。それで悪業とならぬように、善業を身につけようと心掛け励むことが精進でしょう。 仏性とは、本来は無垢清淨の純度百パーセントですから不染汚(ふぜんな)のエネルギーです。ところが不染汚を保つことがむつかしくて、欲が頭をもちあげてくると、汚染され変質してしまうから不完全燃焼につながります。人には生まれながらに純度百パーセントである不染汚の仏性がそなわっていますから、人は生まれながらに仏である。道元禅師は生まれながらに仏で、真実人体であるといわれました。 ところが生まれながらにそなわっている純度百パーセントの仏性というエネルギーが完全燃焼しなければ、仏性が発露しないから、真実人体である命という仏明が光り輝かないのです。 「我と大地と有情と同時に現成す山川草木悉有仏性」で、仏性が発露しているから、人は生まれながらに仏です。ですから、怠ることなく仏明を輝かせよということでしょう。 菩提樹下で坐禅を続けられたお釈迦様は、天の星々も地上の山川草木も、坐禅のご自身も、みなことごとくが仏性のそなわった仏であることをさとられました。 坐禅は仏性をさらけ出すことですから、坐禅はそのままが真実の発露です。坐禅されているお釈迦様は坐禅になりきっておられたから、お釈迦様が坐禅なのか、坐禅がお釈迦様なのか見分けがつかない。それがさとりの現成であり、仏に成るということでしょう。 |
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修証これ一等なり さとりはさとり、坐禅は坐禅ですが、坐禅するところ、それがそのままさとりであるから、坐禅がさとりであり、さとりが坐禅です。このことを「我と大地と有情と同時に現成す、山川草木悉有仏性」とお釈迦様はいわれました。 坐禅をなさっているお釈迦様も、天上の星々も、地上の山川草木も、生きとし生ける有情のものも、ことごとくが真実そのものです。天上の星々も山川草木もことごとくが坐禅のお釈迦様と同じで見分けがつかない。それでお釈迦様は「我と大地と有情と同時に成道す、山川草木悉皆成仏」といわれました。 このことを喩えるならば、真っ白な雪の平原にいる白鷺は、雪も白鷺も白くて見分けがつきにくい、けれども、真っ白な雪の平原があり、そこに白鷺がいるということです。 また、闇夜である漆黒の崑崙(こんろん)砂漠に、真っ黒な玉が飛んでいるとしても、闇の中では黒い玉を見定めることができない。けれども闇の中を黒い玉が飛んでいるのは事実です。 「人は生まれながらに仏であるという。ならば、どうして修行しなければならないのか」これが比叡山での修行の日々における道元禅師の疑問でした。この疑問は中国の如淨禅師のもとで、「身心脱落、脱落身心」を覚醒されたことで払拭されました。 坐禅はそなわった仏性の発露です。ですから坐禅は仏性現成です。坐禅はさとりの手段ではない。したがって坐禅を修行することがそのままさとり(証)であり、さとりとは坐禅を修行することです。道元禅師はこのことを「修証これ一等なり」といわれました。身心脱落、脱落身心とはこのことであると、お釈迦様とそっくりそのままの無上正等覚を道元禅師もご自分の身の上に実現されたのでした。 |
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