2019年8月1日 第247話
             
足るを知る

     巳得の法中において、受取するに限りを以てするを、
     称して知足といふ
                    
道元禅師・八大人覚

食は命なり


 食について道元禅師は「典座教訓(てんぞきょうくん)」と「赴粥飯法(ふしゆくはんぽう)」を著された。「典座教訓」には、「飯を蒸すには、鍋頭もて自頭と為し、米を淘ぐには、水は是れ身命なりと知る」とあります。「ご飯を炊く時には鍋を自分そのものと思い、米を研ぐには水を自分の命そのものと考える」と、水は命なり食は命なり、これは食のつくり手側での足るを知ることの教えです。

 水に限らず一粒の米、一茎の野菜もその命を生かす、粗末にしないということです。お米を洗うことを米を研ぐといいますが、洗い流す時も一粒のお米も無駄にできません。一粒のお米にも、一枚の菜っ葉にも仏である命が宿っていますから、粗末にできない、もったいないの気持ちが大切です。

 たまには一粒の米を手のひらにのせて眺めてみましょう、何かが見えてくるでしょう。お米は額に汗した人と自然が生み出した一粒の輝く命です。一粒の米は人によっては大きく見えたり、見えなかったりする、飢餓に苦しむ人々にはとても大きく見えるでしょう。

 今日、さまざまな食品について食の安全が問われています、家畜の感染症も人間が食材として求めるための大量の食料の供給から起こったことです。この種のことは形を変えてこれからも増え続けるでしょう。そして富める国と貧しい国の格差が大きくなるにつれて、世界の食糧事情はますます深刻化していくでしょう。

いただきます

 コンビニの店頭で座り込んで食べ物を食べている若者、ゲームや漫画本を見ながら食物を無意識に口に運ぶ子供たち、これは健全な心と体の発達に影響するでしょう。朝食を食べない子供は発育に、そして大人は健康維持に影響します。過食、偏食も同様です、食の乱れは心の乱れにつながります、「いただきます」を忘れたところから、自分自身の心が病み始めて、醜いいじめの心、悪の心へと変貌していきます。

 最近の親は子供が食べ物を残してもしからないばかりか、食べられるだけの量をいただき食物を大切にして無駄にして捨てない、好き嫌いを言わない、食事の姿勢など、こういうことを躾として教えていない親が多いようです。いただくとは命が命を食することだから、食べ物を目八分にいただき感謝の心で拝みます。
 家庭の食卓においても「食とは命をいただくこと」だということを、そして「すべからく足るを知る」という感謝の気持ちを、常に心得ておきたいものです。「いただきます」の気持ちで食事を正しく行うならば、すべての行動も正しくなるでしょう。

 グルメという言葉があります、食通とか美食家を指す言葉でしょうが、飽食をも連想してしまいそうです。飽食は成人病や肥満症を引き起こします、また過度の拒食や偏食によって栄養が偏ると感染に対する抵抗力がつきません。食の乱れは心の乱れですから、日常茶飯事というけれど、心掛けるべき生活の基本が食事のいただき方でしょう。 


 「赴粥飯法」には食する側の心得が説かれています。修行僧は応量器という食器で食事をいただきます。朝・昼・夕の食事には、それぞれ必要な器だけを使います。自分で食べられるだけの量をいただく、適量を心得ることを基本とします。使った食器は水を無駄使いしないよう、食作法にしたがって自分で洗います。洗った水の半分は生飯(数粒の米)とともに、飢えたるものに施します。食することにおいて足るを知ることの教えです。

水は命なり

 三十数億年前、生命は水の中から生まれた。水は多くの生命を生み育んできた。人の身体も五十~六十兆個の細胞の水のかたまりみたいなものです。水がなければ生き物は生きることができませんが、あなたにとって一番大切なものは何かと問われると、お金、家族、健康と答えても、水と答える人はいません。

 寺名の由来となった名水・音羽ノ滝がある京都東山の清水寺の管長であられた大西良慶師は「水の徳」という法話をされました。人間の最初と最後は水とかかわりがある「人間、生まれてきたら産湯を使う、死ぬ時は末期の水をいただく、始まりも終わりも水、昔から親の恩に報いんとする時、親はなし、水の恩にも報いず、水のありがたさをも知らずにみんな死んでいく」とよく話されました。

 国連によると、世界の五人に一人約十二億人が安全な水を飲むことができない。年間三百万人以上が汚染された水を飲んで病気になり死亡しており、不衛生な状況のもとにおかれているそうです。

 福井の永平寺に清流があり、その永平寺川に半柄橋という橋が架かっています、半杓とは半杓水のことで、柄杓に半分の水という意味です。永平寺開祖道元禅師の遺訓に「杓底一残水 汲流千億人」と、水は是生命なりと知るべしとありますが、水を大切にされ、使い残した柄杓に半分ばかりの水さえも元に戻されたと伝えられています。道元禅師は水の節約を通してものの命を生かせと教えておられます。

足るを知る人は、五欲にまどわされることがない

水は命の根源、ヒマラヤの北にアノクチの池があり、浄水である命の水が湧き出でるという伝説があります。ヒマラヤの峰から流れ出てベンガル湾にそそぐ大河、ガンジス川は聖なる河、ガンガーとインドの人は呼ぶ。二千五百年前、お釈迦様はガンジス川のほとりで、またこの大河を何度も渡って法をお説きになられた。
 三月十五日、お釈迦様は八十歳にして大いなる旅を終え、沙羅双樹の間に錫杖を置かれました。弟子のアーナンダはお釈迦様に、咽の渇きを癒やされるために、ガンジス川の支流の水をさしあげました。これが末期の水となりました。


 京都の竜安寺の手水(ちようず)鉢(つくばい)に「吾唯知足」と刻まれています。茶室に入る前に手や口を浄める手水ですが、水の使い方をもって、少欲知足をかえりみなさいという教えが説かれています。

 「諸々の飲食を受けては、当に薬を服するが如くすべし。好きに於ても、悪きに於ても、増減を生じることなかれ。わずかに身を支うることを得てもって飢渇を除け。」飲食は薬を服するようでなければならない、好き嫌い、過食、小食でなく身体を支える分だけいただき、飢えや渇きをしのぎなさい、このようにお釈迦様は教えられました。


 足るということを知らない人は、たとえ富めりといえども心は貧しい。足るを知る人は、貧しいといっても心が豊かである。足るを知らない人は常に五欲に惑わされているから不知足の人には安心ということがない、これを知足と名づく。

 お釈迦様は人間の欲望はとめどがなく、足るを知らない人は、たとえ富めりといえども心は貧しい。足を知る人は、貧しいといえども心が豊かである。足るを知らない人は常に五欲に惑わされているから、不知足の人には安心ということがないと教えられました。

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