2019年9月1日 第248話 |
||||
不忘念 | ||||
もし念力堅強なれば、五欲の中に入るといえども、為に害せられず。 たとえば鎧をきて陣に入れば、すなわちおそるる所なきが如し。 是れを不忘念と名づく。 「遺教経」 |
||||
無常を観じる 「滑っても転んでも登る富士の山」です。悩みながら生きていくのが人生かもしれません。ところが悩みながらも生きていければよいのですが、精神的に沈んでしまうと一歩を進める気力すら萎えてしまう。これではいけないと思えば思うほど、自分ではどうすることもできない。そんな状況に陥ってしまうと生きていくのが辛くなります。 どうして人は悩み苦しむのでしょうか。自分だけの狭い考えに執着することを我執と言いますが、自己とは我執の凝り固まりで、悩み苦しみの原因はこれにあるようです。 我執はさまざまな欲そのものであり、自己を苦しめるもとだから、我執を離れるべきですが、欲は魅力的で離れきれず、煩悩が生じてしまいます。その煩悩で悩み苦しみます。悩み苦しみながらも生きていかねばなりません。それで悩み苦しみからのがれるためには、我執を離れようという思いがなければなりません。我執を離れ悩み苦しまなくてもよい生き方をしようと、自分で発願することが、悩み苦しみのない解脱への道につながります。 煩悩を断ち切り解脱に至る道が仏道です、我執の塊では仏道になりません。 そのためにはまず無常を観じる心がなければ、仏道にならない。無常の風が吹くと出世や金儲けは少しも役立たず、知識にとらわれても意味のないことです。人間の身体だけでなく、山も川も宇宙も生まれ変わり、死に変わりしている無常の世にあることを観じ、我執を離れ名利を離れて、はじめて本物にふれることができるようになるのでしょう。 無常を観じたら光陰の速やかなることを怖れるから、つまらぬことに心も動かない、今しかないから呑気にかまえていられないと思うようになります。無常に徹していなければ、名利の落とし穴にはまり、本当の仏道になりません。無常を観じることで我執を離れ、真の自己に目覚めることができます。 それで、まずは名聞、利養の心を捨て、出世や金儲けをして、長生きしても、能のないことだから、本当の生き方をしなければ、生まれてきた甲斐がないと心に決めるべきです。 |
||||
本来の自己 有るということにこだわると、無いということにもこだわってしまいます。有るとか無いとかの判断から離れるということが「無心」です。 自己の思量分別の働きによらず、自分を離れる、道元禅師は自己をわすれると言われたが、小さな自己という執着心から離れて、天地いっぱいの自己になれば、ものの本質を見失うことはないでしょう。「無心」となりて坐る。只管打坐とはそういうことで、これが禅の教えでしょう。 すべてにおいて自己の執着心に縛られているから自由になれない。執着心を放下して、本来の自己の尊さに気づくことが解脱です。本来の自己とは、本来の面目(めいめいがもとよりそなえている仏性)が露になった自己のことです。本来の面目である仏性が露になったもの、真理の現われたるものが本来の自己であり、それを仏というのでしょう。 人には仏性という本来の面目がそなわっているから、仏性が現われ出る生き方をすればよいということです。自己を仏として生かしていく生き方です。仏として生きること、すなわち、さとり(真理)を実践する生き方が仏道であると、お釈迦様は教えられました。 不忘念とは邪な心を離れて、正しい仏の教えを胸に刻みつけて、けっして忘れないということです。 不忘念あるものは煩悩に揺れ動かされることはない。それで常に正法を念じて心に銘記すべきであるということです。もし正法に対する念いを失えば、諸々の功徳を失うことになるとお釈迦様は教えられました。 |
||||
常に新しい私を生きる 誰もが悩み苦しみをかかえています。悩み苦しみが解消できればなんでもないことですが、精神的な苦痛がその人にとって大きなストレスとなり、心身に支障をきたします。 どうすれば苦痛を和らげ、悩み苦しみを上手く乗り越えていけるのかということですが、ロダンの作品に「考える人」というのがあります。悩み苦しみの自分の姿は、まさにロダン作考える人をイメージしたらよくわかるでしょう。ほおづえついて、下向きに考え込んでいると、どんどん気持ちが沈んでいく。だから、その姿勢を変えるべきです。 ではどうするのかということですが、朝、目覚めたらまずその場でちょっと坐ってみる。背筋を伸ばして顎ひいて肩の力ぬいて、お腹の底からゆっくり息を吐くこと数回、そして、自分に言い聞かせます「今日は良いことがある、悪いことは起こらぬ、過去は考えない」と。それから歯を磨いて顔を洗う、そして鏡に映る自分の顔を笑顔にして、その笑顔を今日一日の顔とします。 一呼吸で自分の古い細胞が死んで、そして新しい細胞が生まれます。だから、一呼吸の前と後では自分が新しい私になっています。なのに、頭はちっとも変わらない私であれば、過去にこだわってしまいます。これが、悩み苦しみの自分です。それでいつも背筋を伸ばし姿勢正しく、肩肘張らず、頑張らず、自然体で息の仕方を吐く呼吸法にする。そして、過去を引きづらないで、常に新しい私を生きることです。いつでも今が出発点です。 |
||||
正法を念じて、心に銘記すべし 人間はとかく損得でものごとを認識し行動しようとします。ところが、この世は損得で成り立っていないから、川の流れに逆らうと流されてしまいます。川は高きより低きに流れ行く、これが真理です。 仏教とはこの世の真理(仏法)そのものですが、その解釈を間違えると、仏法からそれてしまいます。自分の立場で、自分の目や耳でものごとをとらえると、どうしても目の前のあらゆるものが、自分と相対にあるものとして受けとめてしまう。相対として受けとめてしまうことを分別といいますが、ものの本質(真実の姿)を見失ってしまいます。 道元禅師は「この法は、人々の分上にゆたかにそなわりといえども、いまだ修せざるにはあらわれず、証せざるにはうることなし、はなてばてにみてり、一多のきわならんや、かたればくちにみつ、縦横きわまりなし」と修証一等(しゆしよういつとう)であると言われました。修証一等とは、修行がそのままさとりである。日々の仏道がそのままさとりの実践です。日々是仏道ですから、時間の使い方が命の使い方だということでしょう。 いつでも、何処でもできるから、時々、背筋を伸ばし、肩の力ぬいて、ゆっくりと息を吐く。呼吸方法を変えるだけでも、気分が落ち着きます。生き方を変えるとは、「姿勢正しく肩肘張らず、息の仕方を変える」ことです。これによって精神の落ち着きを保ち、正しい生き方を見失うことなく、日々新しい私で生きられます。 念力堅強であれば、たとえ五欲のいろいろな誘惑があっても、その誘惑に害されない。これを不忘念という。正しい仏の教えを胸に刻みつけ、けっして忘れないことです。 正しい仏の教えを胸に刻みつけ、けっして忘れず、念力堅強に努めれば、五欲の賊中のいろいろな誘惑があっても、その誘惑に害せられない。「正法を念じて、心に銘記すべし」ということです。これを不忘念といいます。
|