2020年8月1日 第259話
             
自と他

   同事というは不違なり、自にも不違なり、佗にも不違なり
  譬えば人間の如来は人間に同ぜるが如し、佗をして自に
  同ぜしめて後に自をして佗に同ぜしむる道理あるべし、
  自佗は時に随うて無窮なり。海の水を辞せざるは同事なり、
  是故に能く水聚りて海となるなり。  修証義

  

少子高齢社会から多死社会へ

 新型コロナウイルスは高齢者が感染すると重症化することから、高齢者への感染防止についての注意が強く叫ばれていますが、日本は世界のどの国も経験したことのない速度で人口の少子化・高齢化が進行しています。生産年齢人口は1992年69.8%をピークに低下し、一方老齢人口は1950年以降上昇が続いており、総人口に占める65歳以上の高齢者は2017年で3500万人を超えて、割合が27.7%の超高齢社会になりました。その反面で出生率の低下に歯止めがかからないという状況です。

 したがって、我が国では死亡年齢の高齢化が急速に進んでいます。2000年に亡くなった男性のうち、80歳以上だった人は33.4%であったが、2016年には51.6%と過半数を占めました。90歳以上で亡くなった男性は7.5%から14.2%に、女性では2000年で80歳以上が56.3%が、2016年では73.8%に、そして90歳以上は19.6%から37.2%になりました。

 このような長寿社会が実現したことは大変喜ばしいことです。しかし、人間は永遠に生き続けられるわけではないから、高齢者が増えることは死亡者も増えることを意味します。推計によりますと、仮に出生数が今のまま下がらないとしても、毎年50万都市が一つずつ消滅していく計算になります。出生数が70万~80万人にまで落ち込むと100万都市が消えていくという可能性もあるのです。

 日本社会は、2008年に人口のピークをむかえ、人口減少社会に移行しました。2000年には約96万人だった死亡者数は、2017年では134万人になりました。そして2040年には約170万人と推定されています。高齢化社会の次におとずれるであろうと想定される社会の形態が、多死社会です。

多死社会の暮らし方

 日本では後期高齢者の数が増え続けます。2040年、すなわち20年後の死亡者数が現在と比べて3割ぐらい増えるという超高齢社会をイメージしますと、社会保障だけで生きていけるわけではありませんから、住まいとか、街づくり、仕事や余暇、家族、地域社会とのつながり、といった暮らしについてのあらゆることがらが多死社会の課題になります。

 65歳以上の高齢者、とりわけ75歳以上の後期高齢者が増えていく超高齢社会においては、医療や介護や年金の制度というものが、重要な課題となります。けれども人生最後というところを真っ正面から考えてみると、最後に向かってどのように暮らしていったらよいのか、そこにはさまざまなことがあるということです。

 自分が亡くなるとき、どこで最期を迎えたいと思いますか?」という問いに、半数以上の人が自宅で迎えたいと答えています。ところが実際は、病院など医療機関で亡くなる人が8割を占めています。1950年代には8割以上の人が自宅で亡くなっていましたが、だんだんと逆転して、現在、自宅で亡くなる方は約10%強です。自宅で亡くなることが難しい時代になっています。


 自宅で最後を迎えたいと望んでいても、日本は病院での死亡が多い。自宅生活でも、老人ホームに入居していても、最期は救急搬送されて病院で亡くなるのが一般的です。自宅や老人施設での介護に加えて、地域の医師・看護師とも連携がとれていて、定期的に医師の往診があり、いざというときには駆けつけてくれると安心で理想的ですが、それを可能とする体制づくりが必要です。

自然に死んでいきたい

 最近になって、日本人の死生観に変化が出ているようです。主な死因では2000年代後半から老衰が急増しています。これは、延命することを自らやめ、無理に延命するよりも、自然に死んでいきたいという考え方が広がりつつあることを示しているように思われます。その場合は、自分の意思を家族と話し合っておくことが大事だということです。

 無理に延命するよりも、自然に死んでいきたいとの考え方が広まりつつあり、人生最期の「死」に対する意識が変わってきました。それにともない、「終活」に取り組む人や、検査・延命措置を受けないで「尊厳死」を選択する人が増えてきました。ところが、家族や子や孫が葬送を担えない、あるいは担ってくれる親族がいないという事態も顕著になっています。配偶者も子も高齢化しており、老夫婦がともに介護が必要な「老老介護」は当たり前で、親子がともに要介護ということも珍しくなくなりました。

 自分の死が近づいたときにどこまで医療行為を受けるのかという、いわゆる終末期医療の問題があります。医療機関での治療や検査をどこでやめ、自宅に戻ると決断するのか。医療技術が進歩した結果、様々な疾患が見つかりやすくなり、病状が進んでもできる治療が以前より格段に増えました。回復の可能性がわずかでも、医師は延命治療の選択肢を示します。このとき家族が「やめてください」と言えるかどうか、とても難しいから結果的に病院で亡くなるケースが増えるのです。

 自宅で亡くなるためには、本人の意思に加え「介護力」が必要です。特に家族の支えです。見守っている家族が同居していたり、近くに住んでいたら心強いです。また、自宅まで訪れて診療したり、最期をみとってくれる訪問医の存在も欠かせません。訪問介護や訪問看護が可能な環境が居住地域にあるかどうかが重要です。また、要介護や病気療養で一人暮らしが困難になった高齢者が、スタッフのケアを受けながら共同で暮らせるホームホスピスと呼ばれる施設も望まれます。

多死社会のキーワードは、同事

 そもそも遺族がいない“ひとり死”が増えている。独居老人や生涯未婚の人がどんどん亡くなっていくという社会が到来しました。死後の手続きや葬送だけでなく、自立できなくなったときに頼れる家族や親族がそもそもいない場合、誰に頼めばよいのか。元気なうちに自分はどうしたいかを考えておく必要があるのです。むろん死後の落ち着きどころとしての墓所の確定もしておくべきです。

 死の間際に至るまでの暮らしぶりということについてです。それは、最期の瞬間で看取るとか看取られるとかということのみならず、そこに向かっていかに暮らし切っていくか、いい人生であった、いい暮らしができたのか、ということです。多死社会をむかえるにあたって、暮らし方について多岐にわたる問題意識をだれもが持つべきであるということです。


 要介護の方が増えるにつれて、医療や介護の人材の確保が難しくなります。現役の就業者世代が減っていく一方で、医療・介護・福祉の需要が増えるので、働く人の五人に一人が医療や介護や福祉に従事することになるという推計もされている。そうなれば休職あるいは離職して介護にあたる人が多くなるということだから、これを可能にする企業環境、職場環境をつくっていかないといけないようです。そして末期医療について家族と話し合って、医療機関や自宅という、この環境を組み合わせながら、最後の時期をどう暮らしていくのかということです。

 「同事というは不違なり、自にも不違なり、佗にも不違なり、譬えば人間の如来は人間に同ぜるが如し、佗をして自に同ぜしめて後に自をして佗に同ぜしむる道理あるべし、自佗は時に随うて無窮なり。海の水を辞せざるは同事なり、是故に能く水聚りて海となるなり。(修証義)
 自と他は別々のものでありながら、切り離された存在でない。自と他は相通じ、互いにつながりあって存在し合っているものです。海はどんな川の水をも拒まず、川の水が集まって海となる、これすなわち同事なり。
 介護するのも介護されるのも、そして、看取るのも看取られるのも同事です。
「他を幸せにしないかぎり、己の幸せはない」 この道理からすれば、多死社会での暮らしのキーワードは、「同事」 ということでしょう。

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