2021年7月1日 第270話
             
威儀即仏法

    諸仏かならず威儀を行足す、これ行仏なり。
    
                  正法眼蔵・行仏威儀

  行仏とは道にかなった行を日常の行為のうえに
  実現しているもののことである
  日常における行・住・坐・臥がそのまま仏の威儀である。

日本の伝統文化

 日本独特の伝統芸能に茶道、華道、書道があります。茶道は客人に茶をふるまう文化です。茶は中国から伝わったもので、日本では茶道として、「わび・さび」という精神文化を生み出してきました。作法にもとずいて茶を飲んで楽しむことで、茶室という静かな空間で心を集中させ、自分を見つめ直すことで精神を高めます。また人との出会いを喜び、客に最善を尽くすということが大切なこととされています。

 華道は四季折々の花を花器に挿し、その美しさを表現して鑑賞し楽しむものです。華道は仏前に花を供えるというところからはじまったそうですが、花に向かう意識や姿勢を重んじることと、礼儀作法を大切にするという日本ならでわの伝統文化としてさまざまな流儀がうまれました。
 書道も日本の伝統文化の一つです。漢字や仮名を定められた書体に従って、筆と墨で書きます。中国から渡ってきた文化ですが、教養としてまた芸術として発展してきました。茶道、華道、書道の他にも、香道や舞踊があります。

 茶道、華道、書道、香道、舞踊は流派ごとにちがったやり方があり、作法や流儀というものが基本となっています。作法や流儀にもとずいた型を覚えて、それを身につけていくことで上達を目指すということは共通しています。そして感性を高めることで精神的にも自分を進歩させていくのです。

 日本独特の伝統芸能は、長い月日をかけた習い事であるから、いずれも「道」という言葉をつけて表現します。習いごとをすることで、日々の生活にうるおいや、人との出会の喜びを感じ、美意識も高まり、精神修養により心豊かになることで、慈しみの心も育まれます。

道とは人生そのもので、生きている限り終わりがない

 日本人はどの分野でも、伝統を受け継ぎ、技術や能力の向上をはかることと、人格的向上をめざすことを一体のものとしてとらえます。囲碁将棋は勝負で評価されるから、勝たなければ意味がないが、勝負にのぞむ精神状態も注目されます。剣道でも弓道でも、身を守る術であることから、生き死にかかわることとして技の鍛錬とともに、精神の向上をめざすことがもとめられてきました。

 日本人は道という概念をもってとらえようとします。柔道は柔の道、相撲は相撲道でいずれも道として、その奥義をきわめようとします。柔道、剣道、弓道などの武道では心身技ともに習熟し、いっそうの人格の向上をめざすべきであるとします。
 満足と挫折、希望と失望、喜びと悲痛を、何度もくり返しながらも、さらに上を目指して工夫と挑戦を重ねていかねばなりません。向上心を持って努力すること、そして感性を高めて工夫することは道の基本であり、忍耐と勇気がそれを支えます。

 学問も芸術もスポーツも、技術の研究開発も、道のめざすところは同じであり、その道を通して最高の人格に到達することです。したがって、いずれも命の尽きるまでそのことは続けられるべきです。長年続けてきた人はさらに奥義をきわめようと腕に磨きをかけ、いっそうの向上をめざし、新たに始める人は、それなりの覚悟を持ってかからなければ中途半端なものしか得られないでしょう。そして最も大切なことは、最高の人格に到達できるように導いてくれる有能な指導者に出会えることです。

 茶道、華道、書道、などの文化芸能も、柔道、剣道、弓道など武道も同じく、これらは自己の修行です。いずれにも作法や流儀があり、それぞれの型を自分の身につけていくことで修練します。けれども、自己の修行であるから、真実を自己の上に実現するということが基本でなければ、自己向上、自己実現という真の修行から逸れてしまいます。
 また、伝統芸能や武道においては、組織が形成されていることから、利権をあさるとか、うあべを飾るなどの行為に走ると、本道から逸れてしまうので、基本を違えないようにしなければなりません。

自己をならうということは、万法に証せらるるということ

 南獄懐譲が弟子の馬祖道一に、何のために坐禅をするのかを問うと、馬祖は仏になる、すなわち、さとるためだと答えた。そこで南獄は馬祖に塼(かわら)を磨いてみせた。馬祖がかわらを磨いてどうするのかとたずねた。南獄はかわらを磨いて鏡にするのだと答えた。馬祖はかわらを磨いても鏡にならずというと、南獄は「坐禅あに作仏を得んや」と答えた。

 磨塼すなわち、かわらを磨くことが修行であり、作鏡をもとめてはならないと師は弟子に教えたのです。坐禅することは作仏すなわち、さとるためではない、坐禅することがそのままにさとりと一体なのだということ、坐禅を行じることが、そのままさとりであること、修行がさとりの全体であることを、道元禅師は磨塼の話をもって教えられた。

 「仏道をならうというは、自己をならうなり。自己をならうというは自己をわするるなり。自己をわするるというは、万法に証せらるるなり。万法に証せらるるというは、自己の身心、および侘己の身心をして脱落せしむるなり。」
道元禅師は正法眼蔵・現成公案の巻きでこう教えています。
 仏
道とは、仏の教えであり、真実を自己の上に実現することです。修行とさとりは一体であるから、自己をならうというは万法に証せらるるということです。

 日本人は人の生き方を道であらわそうとします。また人生を旅にたとえて、自分の生きざまという道を日々歩みます。そして、行く先を思ったり、足元を見定めたり、過ぎ去りし足跡をふりかえったりもします。道とは人生そのもので、死ぬまでこれで終わりということがないから、絶えず新しいものを求めて工夫し改善しそして挑戦しなければならないのです。道をきわめる修練と、真実を自己の上に実現することは一体のものであり、道元禅師はこのことを修証一等と言われた。


日常の行・住・坐・臥が仏道の修行

 道元禅師は「赴粥飯法」で、禅の修行道場における食事作法を説いています。朝の喫粥や昼の喫飯について、食べ方を作法としてしめしたものです。修行僧は坐禅堂で食事をしますが、その入堂、出堂、坐り方、食器の取り扱いなどの食事の仕方すべてを作法として、順をおって細かく定め、作法によることが仏道修行だと教えています。

 道元禅師は食事のみならず、坐禅の仕方から、便所や浴室の使い方、洗面、掃除、など日常の行・住・坐・臥が仏道修行であるとし、それらの作法を定め、その作法にのっとり修行生活をすべしとされた。
 「作仏」とはさとりを目的とするということですが、仏道修行は作仏でなく、「行仏」すなわち修行することがそのまま仏であるから、威儀即仏法であるということです。


 「仏道は必ず行によって証入すべきこと」と道元禅師は学道用心集で説いています。それは行ずることがそのまま仏であるということです。仏道とは修行であり、行のめざすところは真理の体得です。真理(仏法)を自分自身の上に実現させることは、真理に自己を同じくすることにほかならない。真理に自己を同じくするとは、仏を行じるということです。それはまた、それぞれの分野で菩薩として世のため人のためにつくすということでもあるのです。

  宇宙の今に生きている生命体の一つが自己であるという基本認識のもと、道とは人の生き方であり行仏です。仏道も、学問やさまざまな研究分野でも、スポーツや、芸能や芸術においても、めざすところは、いずれもが真理の探求であり、真理(万法)に証せらる、すなわち行仏であることに意義があるのでしょう。道とは人生そのもので、生きている限りこれで終わりということはないのです。

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