2021年8月1日 第271話 |
||||
思量 | ||||
不思量底いかんが思量せん。 非思量。これ即ち坐禅の要術なり。 普勧坐禅儀 |
||||
意識とは物事を認め知る頭脳の働き 意識とは物事を認め知る頭脳の働きのことですが、蝉やカブトムシには意識というものがなく、ただ刺激を感じて行動しているだけだという。蝉やカブトムシにはエピソード記憶がないからです。エピソード記憶とは、個人が経験した出来事に関する記憶のことで、脳に記憶されている情報が、脳の働きにより意識となり、そして行動につながる。食べ物で喩えると、カブトムシは好みの食べ物がそこにあればそれを食べるだけですが、人にはエピソード記憶があるから、その食べ物の賞味期限はどうかとか、どのように料理するか、などと意識します。 般若心経では、感覚器官として眼耳鼻舌身意の六根があり、この六根により、六境すなわち色聲香味觸法を認識するとしている。六根で感知したものが脳に伝わり、脳に記憶される。これらは無意識の情報ですが、この無意識の情報がまとまりをもつことで、色彩、音、臭、味、熱い、痛い、嬉しい、悲しいなどと認識します。生物は進化することで脳が発達して意識をもつようになったのです。 猿やゴリラや人は知能が発達している。脳が高度に進化したものほど、脳の働きを休ませなければならないので、適度の睡眠が必要です。人はさまざまな情報を記憶して、意識し、行動するから、脳の働きを休ませるために、一日に7時間程度の睡眠が必要だといわれています。 睡眠は、深い眠りのノンレム睡眠と浅い眠りのレム睡眠を繰り返している。深い眠りのときは脳もその働きが休止しているが、睡眠が浅いと脳ははたらき、夢をみたり、もの思いをします。睡眠の質は健康に影響します。熟睡しているときには、意識の働きが休止しているかのようですが、地震の揺れを感じたり、雷の音、突然の異変などの刺激を受けると目が覚める。それは、熟睡していても感覚器官が働いているから意識するのです。 |
||||
自分を意識する 音楽の演奏や歌手の美声に引き込まれてしまうことがあります。コンサート会場では、我を忘れてその雰囲気の中に埋没してしまう。また、サッカー場での白熱する試合の展開に、観客はゲームの流れに我を忘れ、選手の動きに息をのみ、一喜一憂し、怒濤のごとく声援をおくる。こういうときには、自己という認識がないのかもしれません。でもそれはつかの間の陶酔です。 すばらしい芸術作品に出合うと、心を奪われることがある。美味しいものを口にしたときは味覚以外になにもありません。登山して頂上に立ち素晴らしい光景を前にしたとき、一瞬我を忘れて風景に見入ってしまいます。感動が脳に伝わり、刺激に反応する感覚器官の能力である感性という意識がはたらきます。 松尾芭蕉は「閑さや岩にしみいる蝉の声」「古池や蛙飛び込む水の音」と詠んだ。一瞬、我を忘れた感動が脳に伝わり、脳の働きにより句がうまれた。感性という意識が五七五の言葉をうみだしたのです。感受したものの表現を極限にまでそぎ落とした句であるから、心に響き賞賛されるのです。 すばらしい夕焼けの空におもわず我を忘れて見入ってしまいます。激しい雨の中や波濤を前にしたとき、地震の揺れや、雷鳴のとどろきに恐怖を感じることがある。大自然においては、自分という存在の小さきことを意識するからです。また、美しい花を愛でたり、かわいい生きものの姿にみとれます。それは宇宙の今に存在している自分の命と生きものの命を重ねて意識するからでしょう。 |
||||
無はさとり、無明は迷い 愚僧は住職務めをしてもうすぐ50年になります。過去を振り返ってみて思うことの一つに、これまでどれほどの人の葬儀をつとめ、冥土へお送りしたであろうかということです。亡くなられた方々のお顔に接してきましたが、お顔の表情は、人生そのものです。長寿も短命も、悲しみも喜びも、苦しみも楽しみも、その人なりの人生のお顔です。 他人の死を認識できても、自分の死を認識できません。死という瞬間を認識することもなく人生を終えるのです。なぜならば死の時には自分という認識もなく意識する余地もないからです。人は死によって意識や認識能力をなくしてしまいます。 人は死ぬと、その時すでに、人格とか人柄というものも消滅してしまいます。肉体の死は同時に心の死であるから、死をむかえると、もう人でなくなります。だがその人がどういう生き方をしてきたのか、その人の生前の行いである業(ごう)は消滅しません。死をもってその人の意識や認識はなくなるけれど、生前の生き様である業は存在し続けます。 睡眠のときは身心ともに休んでいるから認識や意識の能力は一時的に停止している。けれども感覚器官がはたらいているから、刺激に反応します。だが死をむかえると感覚器官のはたらきはなくなり、完全に認識や意識の能力は喪失します。 般若心経に無無明とありますが、無はさとりであり、無明は迷いです。人は死ぬと一切が無となる。だが人は生きていれば感覚器官がはたらくので認識し意識する。なにごとにつけても迷いは尽きないために無明であるけれど、生きているかぎり意識してより良き生き方をめざしたいものです。 |
||||
不思慮底を思慮する、これ非思量なり 道元禅師は、一顆明珠の巻きに「尽十方世界是一顆明珠」(一切世界は一粒の輝く珠である)と玄沙師備の言葉を取り上げて、この世界に存在するものことごとくが絶対の真実の現れである。真実たる明珠であるから、色鮮やかであり光極まりなきものであり、それらがことごとく全世界をうめつくし、満ち満ちている。この真実を奪い取るものも、投げ捨てるものもいないといわれました。 この世界に存在するものことごとくが絶対の真実の現れであり、真実という明珠です。したがって、真実で満ち満ちているこの宇宙の今に存在している命の一つが自分であり、自分も明珠であるということを認識すべきである。そして、この世は一顆明珠であるから、もとより迷いの根源になるような六根も、そして六境もないのです。 この世界に存在するものことごとくが絶対の真実の現れである。それを般若心経では「色」とあらわしている。尽十方界是一顆明珠であるから、不生不滅、不垢不浄、不増不減である。般若心経では、このことを「空」すなわち無とあらわしている。それで、六根も六境も無であるから、色不異空、空不異色、つまり色即是空、空即是色です。ところが人は自己の認識とか、意識に執着して、無明すなわち迷い苦しみの泥沼でもだえているのです。 薬山惟儼禅師は、思慮することのできない絶対の真実を不思量底とされた。不思量底とは思量でもなく不思量でもなし、これを非思量といわれた。自分がどのように認識し意識して、思量すなわち、思いをめぐらしたとしても、この世は一顆明珠という真実に満ちたところであるから、違うと自ら迷い苦しむことになる。したがって、常に何が真実であるかを見極めるという生き方をしなければならないのです。坐禅は絶対の真実の現れを行じることから、道元禅師は、不思量底を思量せよ、これ非思量なりと、坐禅の要術を説かれました。 |
||||
|