2021年9月1日 第272話 |
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風性常住 | ||||
麻谷山宝徹禅師、扇をつかう。ちなみに、僧きたりて問う、 「風性常住、無処不周なり、なにをもてかさらに和尚扇をつ かう」師いわく、「なんじただ風性常住を知れりとも、いまだ ところとしていたらずということなき道理をしらず。」と。 僧いわく「いかならんかこれ無処不周底の道理。」 ときに師、扇をつかうのみなり。僧、礼拝す。 正法眼蔵・現成公案 |
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不思議な数、0 コロナ禍であったが東京オリンピック・パラリンピック2020が一年遅れで開催されました。0はゼロということから、2020は2ゼロ2ゼロと表されました。数字は数を表現するための記号、あるいは文字です、アラビア数字の0123456789で表すことがほとんどです。 数とはものの順序を示す語であり、ものの数量や分量をも示します。アラビア数字の0123456789はインドに起源をもち、アラビアを通してヨーロッパに伝わったとされています。 数とは何だろうか、なぜ0で割れないのか、マイナス×マイナスはなぜプラスなのか、分数の割り算は分母と分子を逆にして掛けるとなぜ正しい答えとなるのか、など数についての疑問があります。 0が発見されたのはインドだそうです。インドの空の思想から0が誕生したということです。この0とは不思議な数です。たとえば0÷5=0、0×5=0ですが、5÷0は演算できないから答えがありません。なぜなら0×( )=5に当てはまる数などないからです。0÷0=( )、この場合( )はどの数でも全て正解ということになります。 2を2回かけると4、3を2回かけると9、2の二乗は4、3の二乗は9です。ところが2の0乗は1、3の0乗は1です。4でも5でも0乗はすべて1。どんな数字でも0乗は全てが1で、むろん0の0乗も1です。このように0とは不思議な数です。 |
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色即是空、空即是色 インドの空の思想から0がうまれたということです。般若心経では、この世のことごとくが空虚なもので、実体性のないことから、諸存在は空であるという。また、ものの存在を認識できないものを空としています。空は無であり、この世のことごとくが空であり無であると説く。この空そして無は数字であらわせば0ということです。 般若心経では、人間の肉体と精神は、色・受・想・行・識の集まった五蘊(ごうん)であるとする。そして、感覚器官として眼耳鼻舌身意の六根があり、この六根により、六境・色聲香味觸法すなわち、ものの存在を認識するとしている。認識できるということは、ものが存在しているからです。般若心経では、ものの存在が認識できるものを色としています。この色を数字であらわすと、12345・・・ということになるでしょう。 般若心経によると、この世のことごとくが空虚なもので、実体性のないものであるから存在するもの色は、空であり無であるから、0です。たとえば色を5という数字にしますと、空を色で割っても0÷5=0、空に色を掛ても0×5=0です。 ところが、存在しているもの色は認識できるけれど、この世のことごとくが空であり無であるから、たとえば色を5という数字にして、5÷0、色は空で割れない、ゼロでは除算できないのです。だが、実際に存在しているものがあるから、0÷0の答えは1、2、3、4、5・・・いずれでも良ということです。 六根すなわち眼耳鼻舌身意では認識できない微小なものも、科学技術の発展により顕微鏡などの測定器で可視化したり、機器で計測してその存在を認識することができるようになりました。たとえば、生物の命の根源である遺伝子DNAも電子顕微鏡でその存在が確認できる。コロナウイルスのRNA遺伝子も実態が把握できたからワクチンや治療薬がつくられるようになりました。だが変異が著しいので未だに収束させられないのです。また宇宙の起源にかかわる物質の根本である素粒子も計測可能となりました。空であると考えられていたものが色として認識されても、この世のことごとくが空であり無であることにかわりはありません。だから色即是空、空即是色ということです。 |
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本来無一物 菩提達磨を初祖として五祖弘忍の門下には多くの修行僧がいました。その中に神秀と慧能の二人がいました。五祖は弟子たちに、悟りの境地をあらわす詩をつくるようにもとめた。 神秀は「身はこれ菩提樹、心は明鏡の台のごとし、時時につとめて払拭すべし。塵埃をしてあらしむることなかれ」という詩をつくった。 これを見た慧能は「菩提、もと樹にあらず。心鏡もまた台にあらず。本来無一物。なんぞ塵埃を払うことを仮らん」という詩をつくった。 神秀はさとりを鏡にたとえて、煩悩の塵を常にぬぐいさらなければならないといったが、慧能はことごとくがさとりそのものであるから、ぬぐうことも払うこともない。本来無一物であるという。五祖弘忍は、慧能こそが悟りの心境をあらわにしているとして、法を嗣がせて六祖とされたのでした。 煩悩の迷いを打ち破って悟ることを大悟徹底といいます。さとりを0として、煩悩を12345・・・とすると、神秀は人の本性は自性清浄心の0であるが、煩悩12345・・・すなわち塵埃が生じるから、これを払拭するところに0すなわちさとりがあるという。0÷5=0、です。 慧能は人の本性は自性清浄心そのものだから本来無一物で、0であるから塵埃を払うこともないという。5÷0は演算できないのです。 そして0÷0・・・答えは何でも良ということは、無一物とは無尽蔵でもあるということでしょう。 般若心経に不垢不浄とありますが、本来無一物ということは自性清浄心であり不染汚であるから、ぬぐうことも払うこともなということです。 不染汚の修証とは、人は修行によってさとりを得るのではなく、もともと汚れのないものをみがくのが修行であり、これを「証上の修」あるいは「本証妙修」という。 |
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風性常住 実際に存在しているもの色は、その存在を否定できない。だが、存在するもののすべてが縁起(条件と原因)により生じるものであって、縁起により滅するものでもある。したがって、この世界に存在するものことごとくが夢・幻・泡・影の如し、また露の如く、雷のようなもので、一瞬に消え失せてしまうものばかりであるから、露の如く、0÷5=0、雷のごとく、0×5=0で、ことごとくが空であり無であり0である。 ことごとくが縁起により生滅することから、不生不滅、不垢不浄、不増不減、と般若心経にありますが、本来無一物だから、0×( )=5に当てはまる数などなく、5÷0には答えがないのです。だが、無一物ということは無尽蔵でもあるということだから、0÷0=( )、( )はどの数でも全て良しということになるのでしょう。 2の0乗は1、3の0乗は1です。4でも5でも0乗はすべて1です。むろん0の0乗も1です。すなわち、ことごとく本性は0であり、すべてのはじまりは1だということです。1とは、過去現代未来のいつでもということであり、今が出発点ということでもある。 生物は古い細胞が死ぬことで新しい細胞が生まれる。新陳代謝とは、古い細胞の死によって新しい細胞の生があることです。生物全体でみても、一つの命の死は他の命の生をもたらす。そして、古い命が進化して新しい命を生む。命は父母の赤白の2滴(いずれも0)が出会い、0の0乗は1という縁起により誕生します。生命は誕生の1に始まり、生老病死で0に帰すということでしょう。 風性常住という禅語がある。麻谷宝徹禅師が扇を使っていると、一僧が問うた。「風の本性は常住でどこにでも行きわたっているのに、どうして扇を使うのか」とたずねた。宝徹はこれにたいして「おまえは風の本性が常住であることを知ってはいるが、どこにでも行きわたっているということがわかっていない」と答えて、ただ扇を使うのみであった。 風性は仏性であり、さとりそのものです。扇を使うことは修行であり、行じていなければさとりは実現しないということを示された。修行とさとりは一つのものということです。 ことごとくが縁起により生滅しており、色は0より生じ、滅して無つまり0に帰すことから空である。生老病死が苦であるというけれど、もと0にして、縁起により1に始まり0に終わるから苦も無しということです。 人は生まれながらに自性清浄心に満ちあふれた心やすらかな自己であるのに、煩悩の炎を鎮められないために、悩み苦しむことになるのです。ですから、人生は0であると開き直ってもよいのでしょう。 風は見えないけれど、扇の風はここちよく、涼しさを感じる、風性常住とは、風性に満ちあふれたところに日々を過ごしていることに気づいて、露命を無常の風にまかすことなかれということです。 |
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